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★ 以下に引用する文の殆どは、円空作の両面宿儺像に影響を受けているように見えます。それ程、この像のインパクトは大きいと言えます。まるでインド彫刻を見るようです。
▲ 両面宿儺像 円空作 千光寺蔵 丹生川村の千光寺 |
「六十五年、飛騨国に一人有り。宿儺と曰ふ。其れ為人、体を一にして両の面有り。面各相背けり。頂合ひて項無し。各手足有り。其れ膝有りて膕踵無し。力多にして軽く捷し。左右に剣を佩きて、四の手に並に弓矢を用ふ。是を以て、皇命に随はず。人民を掠略みて楽とす。是に、和珥臣の祖難波根子武振熊を遣して誅さしむ」
原文ではわずか八四文字、この話は『日本書紀』にのみあって『古事記』にはない。
武振熊は仲哀記に「難波根子建振熊命」、神功紀に「和珥臣の祖武振熊」とあり、神功・応神と争う忍熊王(オシクマノミコ)を攻めた将軍と伝えられる。
武振熊の事績として伝えられているのは、忍熊王追討と宿儺退治の二つのみである。
ただし、『古事記』では忍熊王を近江で入水に追い込んだのは武振熊その人とされているが、『日本書紀』ではその役を武内宿禰(タケウチノスクネ)が果たしたことになっている。
いわば、『日本書紀』における武振熊は、忍熊王追討で武内宿禰に譲った分の出番を、宿儺退治で取り戻した形になっているのである。
仁徳紀では、宿儺は怪物まがいの凶賊として語られているが、美濃・飛騨の現地での両面宿儺への信仰には根強いものがある。
高山市郊外、丹生川村の千光寺 には、両面宿儺を「御開山様」と伝え、宿儺を刻んだ円空仏も伝わっている。
▲ 袈裟山千光寺 |
また、同じく丹生川村の善久寺も宿儺を開基とし、その近くには武振熊に攻められた宿儺が立て籠もり、ついに首を括って死んだという日面洞窟がある。
その他、美濃・飛騨では多くの古寺が両面宿儺を開基として「両面さま」「両面僧都」などと尊称している。
▲ 大野郡宮村:位山の「祭壇石」 |
谷川健一氏は「美濃、飛騨は大和朝廷にまつろわない異族の国である。両面宿儺はその首長であると考えられている。その名は『日本書紀』に一度登場して、誅殺されたあと正史に姿を見せないが、濃飛では今でも敬愛されている」とまとめる【注2】。
岡部伊都子氏は千光寺の両面宿儺像について次のように評した。
「千光寺にある大きな宿儺の石像には、時代を超えて受け継がれた、住民の敬慕の念がこめられている。大和朝廷にとっては、許せぬ抵抗者であったが、その地方にとっては人の倍の力を持った、優れた人物だったのだ。飛騨を愛する心いっぱいに活躍していた貴重な存在だったからこそ、1600年後の今日まで、その名や像が守られているのだろう。円空が仏像を刻する熱情の中で、心をこめて両面宿儺を刻んだのも、こうした土地感情に共感してのことにちがいない」【注3】
両面宿儺伝説に対して、谷川・岡部各氏は一応は常識的な線にそって解釈しておられる。両面四手の怪人などが実際にいるはずはない(因みに、豊田有恒氏は、そのような怪人が実在した、というアイデアに基づき伝奇SF『両面宿儺』を著している)。
しかし、現地での伝承の根強さを思えば、両面宿儺の実在をむげに否定するわけにはいかない。大和朝廷と戦った現地の英雄が、伝説の中で超人化した、というあたりで話を落ち着けるのが分別というものである。
しかし、両面宿禰伝説の奇怪さには、さまざまな奇想を誘うところがある。本論考は、先学の、両面宿儺をめぐる奇想を取り上げ、そこから新知見へのヒントが得られないかを探るものである。一本筋の通った研究史など構成しようもない珍説・奇説の数々で恐縮ながら、つきあっていただければ幸いである。
邪馬台国エジプト説【注4】で有名?な木村鷹太郎はプラトンの『饗宴』に登場する「原始人間」について次のように述べている。
「元来性なるものは現在では男女の二性であるが、原始人間では男性、女性、男女兼性の三性であった。(中略)原始人間の身体は今の人間と全く異つて、球の形を為し、胸も背も円く、手は四本足も四本、頭は一つで両面あつて裏表反対の方に向き、耳は四個ある、(中略)其力は恐ろしく強く、又其思想も甚だ偉大で、神々に対して攻撃を加へる程で、其中オーツや、エフィアルテースの如き巨人は、ホメーロスの神話に言ふが如く、天に昇つて神々に反抗しようとした事もある」
神々は人間の力を削ぐためにその身を二つに断ち割り、現在の姿形にした。そのため、人間は常に失われたもう半分の我が身を求めている。これが恋愛の起源だという。
そして、木村はその「原始人間」について、「此人間は日本書紀−仁徳天皇紀の飛騨の宿儺−と同じ人間で(中略)プラトーンと同じ材料から出て居るものと思はれる」というのである【注5】。
坂口安吾は、両面宿禰に双生児のイメージを見出し、古代史に現れる双生児で最も有名なのは大碓小碓、すなわち日本武尊とその兄であるというところから想像の翼を広げていく【注6】。
大碓は美濃へと二人の美女を迎えに行ったとされ、また『日本書紀』には美濃に流されたとあるなど、美濃・飛騨と関係が深い(飛騨はもとは美濃の一部)。
「日本武尊が景行天皇にうとまれて天皇は彼を殺すために諸方の悪者退治にだされたというのは、表向きで、実際は兄大碓命が暗示するように、彼は飛騨か美濃に住み、飛騨か美濃の女王と結婚して諸国を平定しつつあった豪傑であり首長であった。古事記の伝えが天皇に殺意ありと云うのは、景行とは血のツナガリなく、実は本来敵として対立する両氏族の両首長を意味するらしい」
「日本武尊をこういう方と見ると、飛騨に伝わる両面宿儺の一生に似てくる。両面宿儺を退治したのは仁徳65年、武振熊であるが、この人物はその百何十年前の神功皇后時代にも他にただの一度だけ史上に現れて、この時は武内宿禰の命令が香坂王(カゴサカノミコ)、忍熊王の二兄弟を殺している」
「要するに日本武尊兄弟、忍熊王兄弟、両面宿儺は同一人物で、宿儺は一体で顔二ツというのが変っているだけですが、このことは、これらの兄弟の神話は二人一組で一人をさし、もしくは、たった一人の史実をいろいろの兄弟や双児の二組にダブらせて、その総合でその一人の真相を暗示していると見ることもできます」
坂口はまた、この「兄弟の神話」の原形となった史実とは、いわゆる壬申の乱の際、日本の正統な首長である高貴な人(国史では天智天皇、大友皇子と記される)が、飛騨で天武天皇によって殺されたことではなかったかとも論じている。
坂口の論は大いに暗示に富むものであり、後の両面宿禰をめぐる奇想はことごとく坂口の影響下にあるといっても過言ではない。
ちなみに坂口が両面宿儺、日本武尊などと同一人物とした忍熊王について、杉本壽氏が興味深い伝説を記しているので、引用しておきたい(文中、「著者」とは杉本氏御自身のこと)。
▲ 剱神社 |
(中略)神功皇后や武内宿禰らの軍のため淡海(近江)国瀬田川畔に追いつめられた忍熊王らは、我が身を川中に投じ神功元年(201)3月5日自ら薨じさせ給うたということになっているが、実は身代りを立てて越前国角鹿に遁れ、後、海路をへて織田荘の山間に入られ、織田郷開拓の祖神になられた、というのが剣大明神社記の教うるところである。
▲ 中山寺奥院 |
著者は、たまたま 兵庫県宝塚市の中山寺 ですがすがしい忍熊王尊影を拝し、1800年の昔の歴史記録に驚愕したものである。
ところが国幣社昇格のさい忍熊王を祭神として申請したところ、正史に『神功皇の后元年二月熊坂・忍熊王二反す』とあるから承認成り難しと却下された。しかし郷民たちは敬慕する忍熊王は我らの祖神たり忍熊王を措いては昇格を希望せずと抗するので、已むなく素盞鳴尊(スサノオノミコト)を祭神に代えて申請し目出度く国幣社列格を仰出されることになった」【注7】
なお、この剣大明神の神官家の一族からは後に戦国武将・織田信長が出ている。
【注1】廣田照夫「異形の鬼神、両面宿儺の敗死」『歴史と旅』平成五年一月号、所収。
【注2】尾関章『濃飛古代史の謎』三一書房、一九八八年、帯「谷川健一氏推薦」より。
【注3】梅原猛・岡部伊都子『仏像に想う』下、講談社、一九七四年。
【注4】原田実「木村鷹太郎の邪馬台国論をめぐって−・かなり埃及−」『古代史徹底論争』駸々堂、一九九三年、所収、参照。
【注5】木村鷹太郎『希臘羅馬神話』教文社、一九二六年。
【注6】坂口安吾「飛騨・高山の抹殺」一九五一年初出、『安吾新日本地理』河出文庫、一九八八年、所収。なお、この随筆の草稿である「飛騨の秘密」も『安吾新日本風土記』河出文庫、一九八八年、に収められている。
【注7】杉本壽『木地師制度の研究』第一巻、清文堂、一九七四年。