現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ36 > 320.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: 奈良・平安の星辰信仰とプトレマイオス3部作【横浜こども科学館 天文民俗学】陰陽道と宿曜道(1) 投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 7 月 13 日 00:28:12)
■ 昔の皇族・貴族は陰陽道好き
◇ 聖徳太子は「陰陽五行」の思想を利用している、と言っている研究者もいる。官位12階は北極星を回る12星から採られた、官吏の服の色も「五行配当」と同じである、17条憲法も陰の極数8+陽の極数9からなり、前半8条と後半9条では書き方が異なっている、というのがその主張。
◇ 壬神の乱の勝者天武天皇は陰陽道マニアで、自身が天文や遁甲をよくしたと日本書紀に記されてある。壬神の乱を起こす際も、「式」という星占い板で勝利を占っている。
◇ 淳仁天皇の時代、僧・道鏡と争い破れた藤原仲麻呂は、仲麻呂の雇っていた陰陽師が道鏡側に密告したことから謀反が失敗した。
◇ 9世紀の陰陽師・刀伎値川人は大納言・安倍安仁を、怒る「地神」から「遁甲の術」で救った。(今昔物語)
◇ 10世紀の陰陽師・安倍晴明、別の陰陽師に呪われた蔵人の小将を「呪い返し」で救う。(宇治拾遺物語)
晴明は、花山天皇の原因不明の頭痛を前世を見通して治す(古事談)など、奇談が多数伝わっているのは有名。ただ暦の計算をしたような話は殆どない。
◇ 藤原道長の日記「御堂関白記」は、陰陽師が吉凶を記した暦「具注暦」に自分の日記が書き込まれたもの。
道長は陰陽道の占い過敏症で知られ、日が悪い、方角が悪い、と度々家に引き篭った。
だが、もっと過敏な貴族は、爪を切るにも「具注暦」に従って吉日を選んだそうである。
◇ 10世紀頃の平安貴族の浮気の言い訳として、「家に帰るには方角が悪かったので**家に泊まった」というのがよく使われた。最も不自然ではない理由だったそうである。
■ 安倍晴明
どの陰陽道の本を読んでも、まずまちがいなく安倍晴明の話が出てくる。『帝都物語』などにも出てくる陰陽道のスーパースターと言われる安倍晴明とは、そんなに凄い人物なのだろうか。
安倍晴明と松明を持つ式神 |
白狐の化身_葛葉姫:伝・晴明の母 (名田庄村暦会館展示) 安倍晴明陰陽師ツアー |
芦屋道満と術くらべをして、箱の中味を当てた道満に対し、晴明は箱の中の夏みかんをネズミに変えてみせたとか、そういった話は数多いが、晴明の本職は宮廷の陰陽寮の天文博士である。
これは天変を見て世の中のできごとを占う、天変型星占いを行なう職である。彼はちゃんと仕事をやっていたのであろうか?
晴明が星をみて何かしたという記録は、私が知る限り1つで、花山天皇が突然出家したとき天象を見てそれを言い当てたという話くらいである。
奈良県桜井市にある安倍山文殊院は、安倍家の氏寺として建立された寺だが、そのあたりに伝わる話では 晴明が作った暦は、遣唐使安倍仲麻呂(晴明は安倍仲麻呂の子孫)が持ち帰った(仲麻呂は唐で没した?のだが)暦が元になっているというものがあるらしい。
晴明が陰陽師らしく暦を作ったのか、と思ったのだが、仲麻呂は770年に亡くなっているので、そのころの中国の暦というと「五紀暦」である。日本ではまだその前の「大汀暦」が使われていた。
晴明が活躍した10世紀は、日本でも新しい「宣明暦」が使われていた。そんな200年も前の古い暦を利用するはずがないので、この話は大いに怪しい。
やはり安倍晴明は暦の計算ができなかったのではないかと思う。
晴明が書いたことがはっきりしている唯一の著書に『占事略決』というのがある。36種の占い法が説明されているそうで、陰陽道の基本文献だそうだ。ここでは単に「**は吉、○○は凶」といった結論だけが述べられているのではなく、中国の原点の陰陽五行思想に近い、五行相克・相生の複雑な理論が書かれている。
相当に学問(残念ながら天文学ではない)を積んだ聡明な方であったようだ。
■ 陰陽道の資料不足
宿曜道系の星曼陀羅などの資料は多く残っているのに、陰陽道系の資料は、室町時代に庶民に出回ってきた書物くらいしか残っていないのはなぜだろうか。
陰陽道は11世紀以降、賀茂家と安倍家の独占となり、密室傾向が強くなった。
そこまではいいのだが、賀茂家は直系の嗣子が殺され断絶、安倍家は土御門家と名前を変えて続いたが、うっかり豊臣秀次の依頼をうけて祈祷した土御門久ながが、秀吉の怒りを買って弾圧され、家伝の膨大な陰陽道の資料を殆ど失って(焼かれた?)没落してしまったのだ。
ああもったいない、さぞ、面白い図や、中国からの秘伝の文献、長年の天象記録などがあっただろうに........とほほほほ。
■ 宿曜道のルーツ
宿曜道の暦法は、「符天暦」がややこしい暦らしいので詳しい点が不明だが、星の信仰と占星術の実際はだいたい解っている。
宿曜道は仏教の中でも、真言・天台の両密教で行なわれる。密教は、大乗仏教の中でも最も新しい宗派で、インド原産、広く知られるようになったのはA.D.7世紀頃と言われる。
六連星(スバル) |
インドでできたので、ヒンドゥー教の神々と縁が深い。9曜(9惑星)は、日曜スーリヤ、月曜ソーマ、 火曜アンガラカ、水曜ブダ、木曜プリハスパティ、金曜シュクラ、土用サナイスカラ、羅喉ラーフ、計都ケトゥで構成される。
9惑星は、創造神ヴィシュヌの創造といわれる。
北斗七星はインドでは7聖仙、スバルは7聖仙の6人の妻だともいう。
北極星はインドではドルヴァで、密教の妙見菩薩とは異なる。
27宿占星術(後に28宿となる)【注3】はインド独特のもので、中国の28宿とは宿の位置も名称も違う。原点はアーリア人の聖典の1つ、B.C.900ごろのアタルヴァ・ヴェーダという呪術書である。
中国28宿よりも古く、また後にインドに伝わるバビロニア風占星術とも違う(メソポタミアには星宿はない)。
|
|
密教でいう宇宙の原理は「胎蔵・金剛の両界曼陀羅」で表わされるらしい。両界曼陀羅は、やはりA.D.7 世紀頃インドで元ができあがり、それぞれ「大日経」「金剛頂経」にまとめられ、大日経の方はインド僧善無畏が中国にもっていって訳し、金剛頂経は不空三蔵がインドから持ち帰り、訳した。
その2つの教典を元に、両界曼陀羅が中国で描かれたらしい。星の尊格はこの曼陀羅にも描かれている。
最も大きい神格は中心仏の大日如来であろう。太陽・光の神で、インド名はヴァイローシャナ、名高い阿修羅王である。ヴァイローシャナは、毘盧遮那(ビルシャナ)仏→大日如来と変化していくようだが、奈良の大仏はまだ大日如来になる前の毘盧遮那仏である、というのは有名。
北斗七星、妙見菩薩は他に独自の曼陀羅があるので、部分的にしか描かれていないが、28宿の神というのが女性神格で28人、描かれている。
密教では、ヴェーダの神よりアスラとなった土着の神の方が重視されてきており、曼陀羅に登場する尊格は 多くがアスラ系のヒンドゥー神、または密教で作られた仏(明王など)である。
★ インドの神とイランの悪魔
インドのアスラ(阿修羅)は、イランのゾロアスター教の最高神で光の神アフラ・マツダと同じもの、というのは有名な話である。反対にインドのデーヴァ神群は、ゾロアスター教ではダイヴァと呼ばれ、悪魔の名称である。
イランとインドの民族は元々1つだったそうで、インドでもアーリア人に征服される前は、イランのようにアスラ神群が神であったと言われている。
牛と戦う 羊飼い姿のミトラ神 (北斗七星・二十八宿・九曜星 ・十二宮・北極星の仏を供養) |
リグ・ヴェーダで最も賛歌が多いのは、デーヴァ神インドラである。
次第に主要神は、軍神にして雷神インドラ、火神アグニ、風神ヴァーユ、太陽神スーリヤというデーヴァ神になり、B.C.1000ごろのブラーフマナ文献ではブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌの力が強くなる。
この3神は ヒンドゥー教3大神とされ、B.C.200ごろのラーマーヤナ、マハーバーラタで人気が確立される。
アスラとなった神々の復権は、A.D.700ごろ、仏教の人気が落ちて密教が登場してからのことで、祖国インドではなく、中国・日本でのことであった。
■ 生活に残る陰陽道のなごり
◇ 神社のお札・お寺のお守り−−<陰陽道>の符呪がもとである。特に複雑なものほど、<陰陽道>起源と思われる。 文字ではなく特殊な図形が書かれているのは<道教>の霊符。丸は星を表わす。
◇ 毎年、毎日の60干支。
◇ 忍者のとなえる九字(陰陽師 葦屋道満が発明したと伝えられるが、うそ。中国の古くから伝わる呪文のようなもので、インドからの伝来ではない)。
◇ 鬼門封じ−−北東の方角の塀を凹ませる、京都の鬼門封じとしての比叡山延暦寺など。
◇ 「五芒星(☆マーク)」−−晴明桔梗といい、魔除に使われる。
◇ 伊勢神宮の竹とり儀式の「太一」の扇。
◇ 庚申信仰−−庚申の日の夜に、庚申社などに集まり、精進料理を供えて、宴会しながら朝を待つという行事で、人間の善行悪行を司令神に密告する三戸の虫の報告をふせぐためという。甲の日なので猿田彦の神と結びついた。中国<道教>に由来し、日本の<陰陽道>の行事であった。
◇ お正月のお「屠蘇」−−中国の<道教>の仙薬がもとである。
◇ 1/7の「七草粥」−−7草とは7星を表わし、49回包丁で切るのは、7曜+9曜+5曜+28宿で49ということである。延命息災の効があるとされた。
◇ 「節分」−−昔は節分で新年と旧年をわけ、1つ年をとった。新年の自分の星回りにあたる星を祭り、除災招福を 願った。鬼を追うのは古代の宮廷の儀式「追難儀礼」が起源とされる。
◇ 「雛祭り」−−3月の巳の日は、巳の日の祓という禊ぎの儀式があり、桃の節句となった。
◇ 「端午の節句」−−菖蒲とちまきは、中国<道教>の疫病よけのシンボルだそうだ。
◇ 七夕−−短冊をつけた笹を燃やすのは、<道教>の儀式に因んだものらしい。
◇ 9/9の「重陽の節句」−−陽の数9が重なり縁起がよい日。<陰陽道>に詳しい天武天皇が菊の宴をもよおし、慣例になったらしい。
◇ 「大祓い」−−12月にいっさいの罪の汚れを洗い清める。やはり天武天皇が創始者。
◇ ”天皇”という言葉−−天武帝が”おおきみ”と呼ばれていた天皇の呼び方を変えた。これは天皇大帝と呼ばれた北極星からとった呼び名。<陰陽道>では北極星は世界の王であるとされていた。
【参考文献】
・大森宗他編「陰陽道の本」学習研究社
・金指正三「星占い、星祭」青蛙房
・速水郁「呪術宗教の世界」塙新書
・矢野道雄「占星術師たちのインド」中公新書
・中山茂「日本の天文学」岩波新書
・西上ハルオ「マンダラ博仏館」鷺書房
・「星の信仰」神奈川県立金沢文庫
・村山修一「日本陰陽道史話」大阪書籍
・頼富幸宏「マンダラの仏たち」東京美術
■ 日本の星の信仰の年表
-----------------------------------<中国>------------------------------------
B.C.6世紀? ◇老子により<道教>誕生(宗教)。
◇<道教>は多神教で、北斗星君・南極老人星等、星の神も多い。
「不老不死の仙境」を目指した。
B.C.5世紀? ◇「陰陽説」成立(自然哲学) ↓
◇「五行説」成立(”) ↓
◇「八卦」成立(占いに近い) |
◇儒教→|←◇時と暦(干支など)
◇惑星→|←◇医学
|←◇風水
↓
B.C.0ごろ ◇みんな合体して<陰陽五行思想>成立(自然哲学)。重要文献は「易経」。
-----------------------------------<インド>----------------------------------
B.C.1200? ◇リグ・ヴェーダ:アーリア人の叙事詩。
B.C.900? ◇アタルヴァ・ヴェーダ:27宿占星術、他。
A.D.6世紀 ◇ヴァラーハミヒラ「大集成」。
A.D.718 ◇「9執暦」など。
A.D.760頃 ◇インドの教典の中国訳から<宿曜道>(星占い)誕生。
重要文献は「宿曜経」(不空の訳)。
-----------------------------------<日本>------------------------------------
A.D.1世紀? ◇ヤマタイ国の鬼道(道教の呪術?)。
6世紀 ◇<陰陽道>伝来
◇聖徳太子、天武天皇らは<陰陽道>をよく利用している。
◇<道教>の呪術も<陰陽道>の一部として伝来した。
◇<宿曜道>伝わるが、呪術的なもの。
577 ◇<呪禁道>百済より伝来。
<道教>の呪術部門。呪祖医療の他、漢方医療も行う。
670 ◇帰化人により初の「属星祭」行われる。
676 ◇朝廷の陰陽寮、初めて記述に登場。
◇陰陽の頭(行政)・天文博士(天変)・暦博士(科学)・漏刻博士(水時計)・陰陽博士(占い)他、研究生などで各部門が構成されている。
690 ◇賀茂役君小角活躍。<修験道>を作る。
692 ◇儀鳳暦。
701 ◇大宝律令(<陰陽道>の国家独占)。
8世紀 ◇遣唐使により、最新の中国<陰陽道>の情報が伝わる。
764 ◇大汀暦。
794 ◇平安京完成。
鬼門封じなど、<陰陽道>の魔除があちこちに使われた都である。
800? ◇空海「宿曜経」を持ち帰る。<宿曜道>本格的に研究始まる。
<宿曜道>とは密教(真言・天台)の占星術のことである。
850? ◇「都利いっし経」(トレミーの占星術書の中国訳)伝来。
<宿曜道>の重要文献である。
858 ◇五紀暦。
862 ◇宣明暦。
この暦は、江戸幕府天文方渋川春海の貞享暦まで、陰陽寮で使われ続ける。
900 ◇「符天暦」伝来。
中国のやり方と違う珍しい暦で、<宿曜道>の暦計算の重要文献。
◇密教の星曼陀羅(北斗曼陀羅、尊星曼陀羅、妙見曼陀羅)が作られ始める。
9〜11世紀 ◇貴族に<陰陽道>の占い大流行。
◇<陰陽道>の天皇家による独占は揺るぎ、公家に<民間陰陽道>広まる。
◇<宿曜道>、<陰陽道>の暦を批判。日蝕予報でたびたび対決する。
921 ◇安倍晴明生まれる(安倍家は安倍仲磨呂の子孫)。
◇晴明の著書は『占事略決』が残るのみだが、重要な<陰陽道>の占いの文献である。
◇法師陰陽師 芦屋道満、九字を開発。
道満は出身地播磨の国佐用で亡くなるが、陰陽師の本拠地は播磨の国であったようで、安倍晴明も播磨守になったことがある。
1000? ◇暦道を加茂家、天文道を安倍家が世襲することになる。
◇実力主義が消え、陰陽寮の科学は進歩しなくなる。
鎌倉時代 ◇幕府も<陰陽道>を行い、頼朝の政権奪取の日も陰陽師が吉日と決めた。
◇承久の乱では、幕府側と朝廷側双方で陰陽師に祈祷をさせた。
室町時代 ◇加茂家が勘解由小路家、安倍家が土御門家となる。
◇勘解由小路家は途中で断絶し、土御門家が暦博士も兼務するようになる。
◇庶民にも<陰陽道>が広まり、鎌倉末期に作られた秘伝「ほき外伝」も出回った。
1600 ◇徳川家康、土御門家を再興。
◇土御門家は全国の陰陽師をまとめる立場となる。<土御門神道>誕生。
◇江戸は京都同様、<陰陽道(風水)>を使って作られた都市である。
1685 ◇渋川春海の貞享暦。
1800 ◇天文方高橋至時活躍。ラランデ暦書翻訳始まる。
1843 ◇天保暦(初めて惑星に楕円軌道を採用した正確な<太陰太陽暦>)。
1867 ◇明治維新。天文方は幕府とともに消滅する。
◇編暦は一時的に土御門家に戻るが、明治政府は新しく天文局を作り、改暦を検討。
1872 ◇グレゴリオ暦に改暦。<陰陽道>は明治政府から禁止される。
-------------------------------------------------------------------------------
【注3】宿曜
インドの占星術では、西洋占星術と同様の12宮も使用するが、27宿も重要な要素となる。12宮は太陽の運行に由来しているが、27宿は月の運行に由来している。
月は1年に12回、満月と新月を繰り返す。満月と新月を各星座で1度ずつ迎えて、1年で最初の星座に戻って来る。これが月の循環サイクルである(太陰暦で1年を12の月に分割するのは、このような月の盈虚による)。
1つの星座を起点として天球を一周して出発した星座に戻ってくる日数は、27.3217日(恒星月)になる。
この27.3217日という周期から、これを27個設定した27宿の方式と28個設定した28宿の方式が生まれた。
インドの場合は27等分方式がメイン(後に、インドでも28宿を採用。27宿の場合には「牛宿」が除かれている)となった。
インドでは、月の軌道の周辺にある明るい恒星が月の宿として選ばれ、「ナクシャトラ」と呼ばれた。ナクシャトラは、月の神ソーマの27人の妻でもある。
これに対し中国の28宿は、黄道に近い天空の部分を28に分け、その各々を宿と称し、それに星座名を附した。28宿は中国において暦学上の必要から発生したもので、太陰の宿内における位置から太陽の位置を推定するために設けられたものであることから、四分できるという点で28を採用したと考えられる。
12宮が太陽のその宮に入る時を知って、季節を正すために設けられたのに対し、28宿は太陰の運行から朔における太陽の所在を推定して、季節を知るために設けられたものである。