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■ 奈良・平安時代の星辰信仰について
日本は、星の神話や伝説が少ない国と言われていますが、天体自体に興味がなかった訳ではなさそうです。 政治を司る人々が、星祭と星占いに明け暮れていた時期もあるのです。
その時代は平安時代。 大陸では、自然科学・哲学であった<陰陽五行思想>は、日本では”星の宗教”<陰陽道>となり、道教と合体して占い・呪術 として独自の発展を遂げました。奈良時代までは、ここぞという時の秘伝であった<陰陽道>が、 平安時代には、日常のあらゆることの吉凶を占うのに使われるようになったようです。
さらに9世紀、空海・最澄が密教を伝え、”密教の占星術”である<宿曜道>も時の占星術ブームにのって盛んになりました。 <宿曜道>は、インド原産でヨーロッパ色の強い新しい占星術で、たびたび<陰陽道>と対立し、お互いの要素を吸収しあいながら 最後には民衆にも広まっていきました。
<陰陽道>と<宿曜道>、日本の星の信仰を代表する、2つの文化の流れを追ってみる ことにしましょう。
■ 陰陽道
陰陽道は、中国の自然哲学 陰陽五行思想が元になり、中国の道教の呪術が加わって、日本独自に発展した占星術・呪術・暦学のことである。
中国の陰陽五行思想は、紀元前5世紀には誕生し、西暦0年ごろには、ほぼ体系的に完成したようである。日本には6世紀に伝来した。
飛鳥時代にすでに政府の「陰陽寮」という機関が作られ、政府の陰陽師たちが、暦を作り、天象から政変を予測し、行事を行なう吉日・吉方などを決めていた。
陰陽道は平安時代に貴族の間で大流行するが、その後、公の場では廃れ、民間や影の場で行なわれるようになる。
具体的に日本の陰陽道は?というと、星をみて占いをする+呪術である。
陰陽道と天文学の関係であるが、陰陽師が昔は天文学者(と言えるかどうか?)を兼ねていたので、深いと言わなければならない。
昔の日本の自然科学(江戸時代まで、日本には生活の役にたつもの以外の自然科学はないに等しかったが)は、お隣の中国の影響が強いが、中国の天文学は、殆ど暦作りに終始している。なので日本の昔の天文学(「陰陽寮」の仕事)も、暦作りと天体観測が主である。
律令によると、「陰陽寮」の組織は次のようなものである。
1.陰陽の頭(行政):一番偉い人。
2.天文博士(天変):テキストは「史記・天官書」「漢書・天文志」など、観測記録。
3.暦博士(科学):テキストは「漢書・律暦志」「晋書・律暦志」など、編暦書。
4.漏刻博士(水時計)
5.陰陽博士(占い):テキストは「易経」「新撰陰陽書」など、占いの本。
「天球」 | 「漏刻」 | 「陰陽寮」 |
当時の政務上、日蝕があるかないかが重要事項だったので、この暦作りには太陽と月の詳しい位置計算が含まれている。陰陽道が盛んであった8〜11世紀の日蝕的中率は50%ほどであったそうだ(斎藤国治『古天文学の道』より)。望遠鏡もなくコンピュータもない時代にしては見事なものではないだろうか。
惑星の会合なども重要であったようだが、これは「事前に予想された」という記述はあまりみたことがない。
どれもだいたい「会合があったのをみて、**が***になるだろう、と天文博士が予言した」という事後報告っぽいものが多い。複雑な惑星の軌道の計算はうまくはできなかったようである。
中国オリジナルの陰陽五行思想は、宗教ではなく哲学である。(日本の陰陽道は非常に宗教っぽいが)それも人間の精神はあまり関係せず、自然を記号的に表わす自然哲学で、応用範囲は非常に広い。
既に日本に来る前に、陰陽五行思想は、陰陽説と五行説、八卦が合体し、それに暦と時(日や年の十干十二支表現)、医学(内臓の五行分類、漢方等)、天体(惑星の五行分類他)、風水(方位、鬼門など)、儒教などの要素を吸収して博物学的テリトリーを所有している。日本でさらに、中国の道教の呪術が強力な要素として加わっている。
自然界のものなら、たいていのものは受容できるので、陰陽師は神道系、仏教の僧、一般人と3種類いて、特に矛盾が生じないという不思議なものだ。
陰陽五行思想の内容は簡単、対象を木火土金水に分類して占うのである。
実際には十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未甲酉戌亥)に変換されて用いられることが多いようだ。
五行 | <木> | <火> | <土> | <金> | <水> |
季節 | 春 | 夏 | 土用 | 秋 | 冬 |
方位 | 東 | 南 | 中央 | 西 | 北 |
色 | 青 | 赤 | 黄 | 白 | 黒 |
天体 | 歳星 | 螢惑 | 鎮星 | 太白 | 辰星 |
神 | 蒼龍 | 朱雀 | 黄牛 | 白虎 | 玄武 |
人 | 仁 | 礼 | 信 | 義 | 智 |
味 | 酸い | 苦い | 甘い | 辛い | 塩辛い |
「五行配当」
■ 宿曜道
800年頃に真言宗を開いた空海は、唐から宿曜道の基本教典『宿曜経』を持込んだ。
この時から、暦学は陰陽道の独壇場ではなくなり、密教の占星術・宿曜道も参入してきた。
宿曜道は陰陽道が使っている唐の「宣明暦」を批判し、バビロニア・ギリシャ由来の暦「符天暦」を使って、日蝕予報で正確さを競った。斎藤国治「古天文学の道」にその様子が面白く紹介されている。
「符天暦」は、当時イスラム・インドの天文学者の教科書的存在であった、プトレマイオス【注1】の『アルマゲスト(原題:マセマティックス・シンタクシス)』、およびこれに基づく占星術書『テトラビブロス(4つの書)』が元になっている。
「符天暦」は天体軌道論の原点ともいえる『アルマゲスト』が多くの民族の手をへて日本に伝わった姿ではないのだろうか。
紙本着色 星曼荼羅図 北斗七星・二十八宿・九曜星 ・十二宮・北極星の仏を供養 星祭祈念祭:高野山本覚院 |
不空が翻訳した『宿曜経』(正式には『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』)は、「27宿&28宿」と「7曜&9曜」で成り立っている。
これらは、バビロニア・ギリシャに由来し、ペルシャ経由でインドに伝来した西洋風のホロスコープ占星術である。
宿曜道の重要文献の1つにプトレマイオス【注1】の占星術書『テトラビブロス』の漢訳本があることから雰囲気が覗えるであろう。
プトレマイオス【注1】自身の定義によると、『テトラビブロス』は『アルマゲスト』に基づく数学の書であるという。言ってみれば、『アルマゲスト』が第1巻であり、『テトラビブロス』は2巻にあたる書物なのである。彼は、ある意味、数学魔術の信奉者でもあった。『テトラビブロス』は占いの本として世界に広まり、7〜12世紀頃のイスラム・インドの天文学者らに大受けした。
平安後期になると、貴族に星祭りが流行し、密教の方でも道教の神を仏教風にした菩薩が生まれ、北斗七星や北極星などを祭った星曼陀羅が作られ、密教の星祭りが行なわれた。
平安の密教系星祭は天台宗のものが多いが、よく体系化された空海の真言宗に比べ、教義で劣る天台宗が、最澄なきあと生き残りをかけて多くの星祭を生み出していったものと考えられている。
■ 陰陽道の星祭り・信仰
四神が4色鳥居の「天壇」 | 天社内の「五芒星」と「太一」【注2】の紋 | 天社近くの「加茂神社」 |
福井県遠敷郡名田庄村の天社土御門神道本庁:正確には「天社宮・泰山府君社跡」という。室町〜明治41年まで奉祀を行っていたとある。
◇ 属星祭−−飛鳥時代から行なわれた古い祭り。生まれた年の干支により、北斗七星の中のどれかの星がその人の「属星」となる。その属星を元旦に祭る。
◇ 泰山府君祭−−11世紀ごろから発展した大型の祭り。「泰山府君」は道教の冥府の神で、「太一」【注2】神(北極星)と 同一視される。主に天皇のための祭りで内容の詳細は不明。
◇ 天曹地府祭−−水宮、北帝などの他12星座も祭る。天皇個人の祭り。
◇ 玄宮北極祭−−北辰を祭る。
◇ 四方拝−−元旦に行なわれる。属星、四方、北斗七星、大将軍星、「太一」【注2】星等を祭る。
◇ 鎮宅霊府神祭−−北斗七星を始めとする72の星神を祭るらしい。
◇ 螢惑祭など−−5惑星の特性に沿い、怪異静め、炎封じ、天変消去等の目的で行なわれた。
■ 密教の星祭・信仰
◇ 北斗法−−北斗曼陀羅を掲げ、祭壇に本命星を中心に四方に本命宿、当年星、生年宮、本命曜を配し息災延命を祈願する。
◇ 尊星王法−−北斗七星と妙見菩薩を祭る。
◇ 本命星供−−天台宗の属星祭。燭盛光法。
◇ 大曼陀羅供−−北斗七星、12宮の神、16天、27宿を祭る、天台宗の祭。
◇ 元辰星供養−−自分の干支の方角の逆に相当する干支から求める裏本名星を祭るもの。
◇ 本命日−−生まれた年あるいは日の干支、また生まれた年の支の日を本命日とし、忌み慎む。
(961年に、生まれた年の干支か、日の干支かで、陰陽道の賀茂保憲と密教の法蔵法師が争い、保憲が勝利した。しかし11世紀より後では、本命日は生まれた日の干支とするようになった。)
◇ 本命宿−−生年月日の日を、27宿の1つにあて、本命宿とする。各月の1日に相当する宿を前もって決めておき、その宿から東−北−西−南の順に数えていく。
(これも保憲と法蔵で争われた。法蔵は生まれた日に月がいた宿を本命宿とするという珍しい説を出し、勝利したが、一般には前記の保憲の決め方が正しい。)
◇ 本命宮−−インド経由の西洋占星術が元になっている宿曜道ならではの信仰。
◇ 年星−−年齢により、その年だけの守護星となるもの。
【注1】クラウディオス・プトレマイオス(A.D.73〜151)
プトレマイオスは、かのクレオパトラの生家でもある没落したプトレマイオス王家の末裔としてアレクサンドリアに生まれた。
クレオパトラの死、すなわちプトレマイオス王朝の没落によって、ギリシャ天文学と占星術は忘れられてしまったかにみえた。が、子孫たるプトレマイオスはこれを掘り起こして集大成する作業に生涯をかけた。
プトレマイオスはそうした偉業を成し遂げた偉大な天文学者であったが、後に1500年にも渡って世界の秩序を支配し続けた天動説の生みの親でもあった。
プトレマイオスは古代の叡知を後世に伝えることに一生の夢をかけ未来に希望を託したのだろうが、皮肉にもその宇宙観は1000年後プトレマイオスと占星術を忌避した中世キリスト教の宇宙観に取り入れられることになった。
その結果、人々の目を真実からそらさせる事になり、コペルニクス(ポーランドのカバラ学者)の悲劇へとつながり、天文学の発展を妨げさせる結果も生んでしまった。
プトレマイオスが生きた時代・・・ローマの時代は、まだまだキリスト教はさほどの隆盛を誇ってはいなかった。が、その後キリスト教はヨーロッパを初めとしてその勢力を広げて行ったのである。
占星術は回教徒の国では受け入れらるべき学問と思想であったが、キリスト教にとっては占星術はその教義と信仰に反するものだったので、長きにわたって悪魔の書として異端・拒絶された。が、中世に入ってから法王に謙譲されたことで、日の目を見ることになったのである。
プトレマイオスの天空の地図ともいうべき天文書『アルマゲスト(数学大集成)』は全部で13巻からなっており、ヒッパルコスの観測と理論を完成したものだ。
この本は、かの有名なアレクサンドリアの図書館が火災の際、辛くも消失を免れ幸運に後世へと伝えられた。
彼はその後、地上の地理からなる時間と空間の未来学を世界地図にした『コスモグラフィア』の作成に取り掛かり、さらに古代占星術を集大成した書『テトラビブロス(全4部)』を表した。この3著は互いに照応しあい、どれか1つを軽視すると、プトレマイオスの哲学の理解は絶対に不可能なのだ。
『テトラビブロス』においてプトレマイオスは、天体と土地の関係を正しく掌握すれば、戦乱や天災、疫病の流行が、どの土地で起こるか予測できるとした。
しかし、何よりも重要なのは、やはり『テトラビブロス』第3部と第4部であろう。
ここにおいて、個人を占うための占星術が解説されているのである。今、我々が見ているホロスコープの原型が、ここにあるのである。特にハウス、サインの象意の原型が、これによって確定したとも言われることもある。
特に重要なのが、獣帯の扱いである。プトレマイオスは獣帯を30度づつ十二分割した。そして、いわゆる春分点を、牡羊座の0度すなわち獣帯の起点とすることを強く説いたのである。
無論、彼は「春分点歳差」は充分知っていた。春分点は少しづつ後退し、今では獣帯の起点たる牡羊座0度は、本来の場所には無い。
こうした方式は、「トロピカル方式(移動十二宮方式)」と呼ばれ、各サインが実際の星座の位置と一致する「サイデリアル方式」とは区別される。
そして、現代の占星術師のほとんどは、このプトレマイオスが唱えた「トロピカル方式」を用いているのである(一部の占星術師やヒンズー占星術では「サイデリアル方式」を採る)。
現代の占星術師が、この3〜4巻を読めば、穴だらけであると思うかもしれない。しかし、同時に、西洋占星術の基礎が、まさにこの本によって決定されたことにも気づくであろう。
参照:@ プトレマイオス:天文学の王子にして占星術の帝王
A プトレマイオス主義
【注2】「太一」とは北極星であり天帝の玉座とされ中宮と呼ばれる。