現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ36 > 255.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: イエス本人とキリスト教は別物だと思っています 投稿者 HAARP 日時 2004 年 7 月 06 日 22:03:29)
HAARP様
横槍のような私の質問に対し、きちんと向き合ったご回答をいただき、感謝と敬服の意を表します。
エクレシア(「教会」と訳される。原語の意味は「呼び出された者」で、本来はナザレのイエスを救世主として信じる人間を指す。地上に見られる組織的教会は、はじめから私にとって論外。)の歴史は、ぶざまにもイエスを裏切る事実の積み重ねでした。その中で自己の無力を認め、徹底的に神に依り頼んだ人々の中から、神は働きを起こされ、リフォームやリバイバルの運動が生じたのです。
けれどもエクレシアは、そのようなリフォームやリバイバルの働きさえ、地上的組織ができあがると同時に、裏切ってしまいました。
HAARP様のおっしゃるように、動機は良いものでも、人間が扱うと、あっという間に劣化してしまうのです。
いわゆる原理的解釈というものも、人間による劣化の過程でしょう。いわく、「イエスに救われた者は、イエスを愛するはずである」→「イエスを愛するなら、イエスの命令に従うはずである」→「イエスは聖書を神の言葉とした」→「聖書には上に立つ権威には従えと書いてある」→「だから云々」など。このような例は、山ほど見つかるでしょう。ちなみにイエスの命令の要点は「愛しなさい」ということです。それが上記のような原理的解釈によって、元の意図が失われ、支配欲に利用されることになる。悪魔が人間の弱さにつけ込む一つの例です。
もしかするとHAARP様のおっしゃる原理的解釈とは、黙示録の終末観をシナリオとして推進することを指しているのかもしれません。もちろんこれも元の意味は違います。元の意味は「人間の罪の結果として、地上は神の裁きを受ける」ということで、人間が意図してこれをせよというのではありません。
HAARP様と同調して言います……、元は良いものでも、人間はこれを誤用し、たちまち劣化してしまうのです。悪意の人間ならば、良いものをわざと逆手に取ることもあるでしょう。
しかし、だからと言って、元の聖典である聖書にまで遡って、「彼ら」の意図を潜ませることができるのでしょうか。
HAARP様の言われるように、この想像をたんに心証として扱うならば、それは非常に興味深い考察となるでしょう。ですが、実際問題として、それは可能だったのか? ……いえ、今の段階では、結論は保留しておきましょう。
最後に「魔術」という用語の定義について。
HAARP様は悪意的なものでなく、一定の秘密の体系なり知識なりを暗号化しておくことと説明されました。しかしながら7月3日の書きこみでは「人類の集合意識を一定の牢獄に監禁」する意図が説明されています。この主張は悪意を指し示しており矛盾ではないでしょうか。