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(回答先: ボーンズの理解した「ヘーゲル弁証法」とは 植田信 投稿者 愚民党 日時 2004 年 7 月 04 日 03:59:09)
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~e-magazine/011/esse4.htm
小川 卓
私が専攻する人間科学の必修科目である『社会哲学特講』において、『高嶺の花(手が届かない)』と思っていた、ドイツの哲学者ヘーゲル(G.W.F.Hegel, 1770−1831)の『法の哲学』を学ぶチャンスを得た。『難解で歯が立たない?』という先入観は吹っ飛び、想像を越える奥行きがありながらも、実はユーモラスな筆致を含んだ、血肉の通った『かなり面白い本』であり、現代を見据える視座ともなることを学んだ。以下に、その概略を記したい。
1)はじめに
ヘーゲルの「倫理(人倫)」論における現代的妥当性を検討する上で、私がもっとも驚いたことは、「君主権」における主張が、わが国における戦後の新憲法で定められた、現在の天皇の権限、および機能にほぼ一致する事実を知ったことである。
我々が学生時代に紋切り型に学んだ「ヘーゲル=明治の大日本帝国憲法に大きな影響を及ぼした」という既成概念だけでは、この点についての説明はできない。ヘーゲルの社会観.国家観が、我が国の政治に与えた歴史的影響を俯瞰することにより、その特質を明らかにしたい。
2)へ−ゲル哲学が日本の政治思想にあたえた影響について
日本における最初の憲法制定にあたり、維新後の日本の指導者たちは、2つの意見に分かれ対立していた。発展途上の国民に憲法をあたえようと考えた伊藤博文・井上毅らと、議会民主主義を奉ずる大隈重信らであった。
後に早稲田大学を創設した大隈重信は明治14年イギリス流の政党政治方式こそ、天皇が国政上有能な人材をひろく求めるための最も有効な道だとして、『すみやかに議会開設の年月日を布告させ、憲法制定の委員会を定め、議事堂の建設に着手されんことを・・』という建白書を提出した。
これに驚いた伊藤博文たちは、大隈重信たちを失脚させるとともに、「われわれの手で憲法を起草せねばならぬ」と、明治23年を期して国会を開設することを詔書によって公約した。
『明治憲法制定史』の著者清水伸博士は次のように述べている。「ヘーゲルは、法は国家によって具体化され、人間最高の自由は国家によってのみ実現される。その意味において、国家は最高の権威であり、しかもプロイセン立憲君主制こそ最高の形式である、と謳歌していた。したがってその門家にはブルンチエリをはじめ、R・U・モールなど後世に盛名をとどめた国家学者ないし法律学者を輩出させ、伊藤博文がドイツやオーストリアで憲法学を学んだグナイストやシュタインもその中の著名な学者だったのである」
こうしてみるとヘーゲルが、わが国の憲法制定にあたって、イギリス議会民主主義とドイツ・プロイセン流の君主権中心主義の争いに多大な影響を及ぼしたことが理解できる。歴史上の事実としても、伊藤博文たちにプロイセン政体の価値を教えたのはヘ−ゲルの信奉者であったグナイスト、シュタイン、ロェスラーたちであった。
3)伊藤博文とへーゲル思想について
伊藤博文たちがなぜ君主権中心のドイツ諸国の憲法に目をつけたかについては、以下の事情によると考えられている。
明治4年、右大臣だった岩倉具視が、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを率いて、欧米の先進12か国を1年10カ月間かけて歴訪した。明治維新後の国策の方向を定めんとする、我が国の国運をかけての調査であった。
その際、使節団一行はドイツ・プロイセンの興隆ぶりに感心し、プロイセンの国の舵取り方法が新生日本の運営指針に近いことを討議し始めていた。その上、使節団は新興ドイツ帝国のヴィルヘルムT世、ビスマルク首相に招待されたとき、ビスマルクの次のような発言に深く感動したと伝えられている。「・・・イギリス、フランスなどは領土をむさぼり、物産でもうけ、武威をほしいままにしているので、多くの国がその侵略を恐れている。・・・自分も小国に生まれてそれに悩んでいるので、国権を守ることに没頭しなければならなかった。・・・日本も同じ思いをしているだろうが、日本がもっとも親睦すべき国は、国権と自主をもっとも重んじている国、例えばドイツではないか。」 これらの発言もあり一行のドイツへの傾倒は徐々に進んでいった。日本とドイツの友好はこうした事情からはじまり、明治、大正、昭和、現代へと続いている。
当時の駐独日本公使は青木国成であったが、外務省は早速青木に、来日してくれそうな公法関係の顧問をさがすように依頼し、ローストック大学で国法学の新鋭教授をし、又、著名な学者であるヘルマン・ロェスラー(1834〜1894)が推挙され、明治14年から26年までの13年間、外国人顧問として日本に滞在し帝国憲法起草に大いに助言をあたえた。この功績によって、当時の外国人としては破格の勲二等旭日章を贈られるにいたった。
4)日本の官僚機構とヘーゲル哲学について
議会制度に関連して、ヘーゲルは選挙の重要性を次のように述べている。これは今日の政治に無関心となったわが国の有権者全体にきかせたい、現代的妥当性の高い記述である。「・・・とくに大きな国家では、自分の一票などは多数の票のなかではさしたる効果をあげないという理由から、自分の票を投ずることに対して必然的に無関心な態度が生じる。投票権にどれだけ高い価値があるかを諭されても、有権者たちは必ずしも投票にはあらわれないということである。そうしたことから、こうした選挙制度からは、むしろそれのたてまえとは逆のことが結果として生じるのである。選挙は少数者や一党一派の手中におちいり、したがってほんとうは解消されなければならないはずの特殊な偶然的利益に支配されることになるのである。」
明治から大正・昭和・平成の四代にわたり、日本の法学界の主流をしめてきたのは「ドイツ法」であった。そして、この時代の最高のエリートであった帝国大学法学部出身者が、今日の官僚機構をつくり、さらに政治機構をつくりあげたといえる。そして現代にも、その機構が受けつがれ、世界でも驚くべき官僚国家を、今も日本が形成していることを考えてみると、ヘーゲルの日本人への影響は半永久的に続いているといってもよいのかもしれない。
5)ヘーゲルの君主に対する考え方について
ヘーゲルの君主についての考え方において、明治憲法による日本の君主である天皇に関する考え方を超え、はるかに新しい像を提供している。
「・・・君主は国家の最終決定をする意志の主体ではあるが、だからといって専制的にほしいままな行為をしてはならない・・」と規定している。憲法が確固たるものであれば、君主は署名する以外になにもすべきではない。すなわち、君主の意志決定は、行政、立法などの客観的性質に無関係、無関心であれはあるほどよく、君主がなす唯一の行為は、「諾」という形式的最終決定、すなわち、「ただただ承認の印」をおすだけということになるのである。戦後の新憲法においては、天皇は国政に関する権能が否定され、憲法によって定められた国事行為をする機能だけがあたえられている。
こうみると、ヘーゲルの君主論は、非常に現代的であり、もしこれを明治憲法に取り入れていたら、日本の近代化は全く違ったものとなっていたのではないかと思われる。
へ−ゲルはプロイセンがイエナで敗走した1807年に『精神現象学』を刊行し、ついで『論理学』を発表し、さらに17年には『哲学的諸学のエンサイクロペディア』を刊行している。これらの著作はヘーゲルの名声を大いに高め、フィヒテの死去によって空席になっていた、ベルリン大学の教授に任命されるきっかけをつくった。ヘーゲルはベルリン大学時代に、生涯の絶頂に達した。「歴史哲学」や「美学」などの彼の講義には百人以上の聴講者が出席した。とりわけ彼は、プロイセンの新興官僚組を支持したため、それを嫉んだ連中からは「御用学者」呼ばわりされることになった。
又、彼の『歴史哲学』では、フリードリッヒ大王礼讃の言葉がみうけられる。ヘーゲルは啓蒙主義者と称したとはいえ、結局は中央集権的専制君主であったフリードリッヒ大王を新教の英雄とし、哲学的な国王であると讃えているのである。
ヘーゲルを保守反動と見なす一番の問題点は、彼がプロイセン憲法を絶対精神の実現、究極の目標としたことである。そしてこのヘーゲルの弟子のシュタインらの教えを受けた伊藤博文らがつくった憲法草本が、「大日本帝国憲法」であり、その憲法を元に軍事大国として第二次世界大戦の敗戦まで突き進まねばならなかった君主制旧日本が、へ−ゲルの政治哲学に悪影響を受けてしまったといえないこともない。確かに前述の通り、大隈らの失脚により我が国の民権運動は出鼻をくじかれ、自由民権思想による議会政治への道は逸らされてしまったことも歴史上の事実である。
6)ヘーゲル哲学の現代的妥当性と革新性について
自由民権主義との対立から生まれた憲法である、大日本帝国憲法には、ヘーゲル流の保守主義が十分に生きていた。しかし、ここで見落としてはならないのは、帝国憲法にヘーゲルの理念が充満していることだけを言ったのでは、決してヘーゲルの正体をつかまえたことにはならないことである。彼には保守反動的な面とともに、きわめて批判的革新的な面が同居していたのである。又、読むまで想像もしなかったことであるが、戦後日本の新憲法なみの新しい思想が、ユーモラスな筆致で、難解、晦渋な哲学的文章のなかに綴られているのを発見することもできた。ある論者が指摘するように、「ヘーゲルは、あえて『君主主権』説を唱えることによって、逆に『主権』の所在をめぐる議論に深入りすることを回避しつつ、『主権』そのものの開明化を通して国家とその権力の運用を国民主体としたものの方向に近づけ、その『立憲化』を図ろうとした。」という意味も、ここで深く頷くことができた。
私はこれまで、現在の日本においてリアルタイムで討議されている事柄、例えば有事立法や改憲論争に対して、新しい問題には新しい知識が必要とばかり、ニュースや新刊本から情報を吸収しながら思考してきた。しかし、思い返せば、溢れかえる情報に溺れ、表層的な知識の上で、それを手放さず、不全感を持ちながら思考してきたように思う。
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~e-magazine/011/esse4.htm