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(回答先: 人類の東洋進出は180万年前?…原人調査で特定【読売新聞】人類の起源に、アジア説や多元説も浮上中 投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 7 月 03 日 12:54:47)
アフリカが起源とされる人類が南米に到達するまでの5万キロの足跡「グレートジャーニー」を、約8年がかりで逆ルートで踏破した、医師で探検家の関野吉晴さん(55)=東京都国分寺市=が8日から、日本人のルーツを探る新たな旅に出る。
前回は、1993年チリ南端を出発しユーラシア大陸を横断、タンザニアまで旅した。
今回は、その“幹線”から枝分かれする形で人類が日本列島へ渡って来たとされる(1)北方ルート(2)大陸ルート(3)黒潮ルートの3経路を、前回同様、動力に頼らず徒歩や自転車で移動する。また、もう1つの“幹線”として人類が太平洋の島々へ向かった「海のグレートジャーニー」もたどる。
これら4経路を2009年秋まで断続的に旅し、各地に残る伝統文化と日本文化との関連などを調べる予定。一昨年着任した武蔵野美術大(東京)での教職の傍ら、年間3―5カ月ほど海外に出るという。
[7月3日3時18分更新]
引用: 関野吉晴 ■ 近況報告
■ 2004/07/01
新しい旅(グレートジャーニー・ジャパン+海のグレートジャーニー)
ここ33年間、半分以上の期間を海外の、電気も上下水もないところで、土地の人に泊めてもらい、できる限り同じものを食べて暮らしてきました。しかし自分の足元、あるいは日本についてあまりにも無知である事を痛感しました。学生時代に国内の山を登り、川を下りましたが、流域や山麓の人々と交流することもありませんでした。
グレートジャーニー終了後は日本を知ろうと足元を見て歩いています。二風谷のアイヌ、山形の鷹匠、新潟のマタギ、東京西部の農林業に従事している人たちと交流しています。その中で最も力を入れているのは私の地元、東京下町での職人達との付き合いです。
私の生まれた下町に全国のブタ革なめしの8割をしている地域があります。そこで体験労働をしています。アンデスやアマゾンでも「泊めてください。食べさせてください。何でもしますから」と頼み込んで居候させてもらいました。仲良くなってから話を聞き、写真を撮ったのです。日本でも同じ流儀ですることにしました。
木下川のなめし皮工場は屠場から運んできた毛と脂のついた皮を、様々な工程を経て、伸縮性のある、色つやをつけた革にする工場です。生の皮は、乾くとするめのように硬くなります。逆に濡れると生皮に戻って腐りやすくなるのです。熱にも弱いままです。原皮のままでは利用価値はありません。しかし、皮を様々な薬品を溶かした液に漬けてドラムに入れて回し、乾かし、引っ張ったり、揉んだりして、やわらかくて腐り難く、熱にも水にも強い革にします。およそ2〜3週間をかけた様々な工程を経て進められます。
今は不景気で仕事が減っています。かつて中国、台湾、韓国などに日本人技術者が指導に行きました。それらの国が技術を習得してしまうと、そこで加工された革製品が格段の安価で輸入されてきます。このような産業の空洞化、外国人労働者、職人の高齢化、差別など様々な問題を抱えています。日本の一端が凝縮して見えてきました。今後も油脂工場、屠場、養豚場などで働くつもりです。さらに日本がクリアに見えてくると思います。
足元から日本を見ると共に、7月上旬から日本人のやって来た道を辿る旅に出ます。考古学、自然人類学、遺伝学などの最近の成果から3つの主要ルートが考えられます。1.シベリアからサハリン経由で北海道へ。2.ヒマラヤの南にルートをとった者たちはインドシナ、インドネシア、そしてオセアニアに拡散しました。この旅路が「海のグレートジャーニー」にあたります。その一部が黒潮に乗って日本にやって来ました。3.そして中国大陸からダイレクトに又は朝鮮半島を経由してやって来たルート。日本は人も文化もけっして単一でありません。実に多様性に富んでいます。様々な民族が混じりあい、いくつもの文化を作りだしました。
今回も自分の腕力と脚力にこだわり、寄り道にたっぷりと時間をかけて、6年ほどかけて歩くつもりです。いままで縁の薄かった東アジア、東南アジアを歩いて、見ることが出きそうです。そして少しでも日本人、また自分がクリアに見えればいいなと思っています。
最初は北方ルート、シベリアを移動し、夏の間に間宮海峡に達する予定です。海峡が結氷するまでは狩猟民たちを訪ね歩き、結氷したら徒歩で間宮海峡を横断するつもりです。宗谷海峡を渡って、北海道上陸は来年の夏になるでしょうか。
■ 2004/05/29
3月末、ネパールから帰りました。北ドルポのナムド村での診療活動はおよそ2週間、それなりの成果が上がりました。当地で行われているチベット医学、チベット文化を壊すことなく、彼らにとってよりよい医療を展開していくにはどうしたらいいか。村の若いチベット医者と遊牧民用のテントでにわか診療所を開き毎日村人たちを診てきました。いつも30−40人、周辺の村からもうわさを聞いて来たので、多いときは70人を越える患者がやってきました。なるべく強い薬は使わず、私が帰った後も継続できるような診療活動をしてきました。今、村ではチベット医がチベット医学を中心に、私が持ち込んだ西洋医療、代替医療を取り入れて診療をしています。定期的に報告をしてもらい、その都度今後どうしていくか検討していくつもりです。
4月は主にマタギのクマ狩りに参加し、鷹匠を訪ね、最上川を下りました。これらはグレートジャーニー・ジャパンの一環ですが、7月上旬からは日本人のやって来た道、北方ルートを歩き始める予定です。
■ 20004/03/03
3月5日よりおよそ1カ月間、ネパールに行きます。以前4カ月お世話になった西北ネパールの中国国境に近い北ドルポ地方で医療支援をする予定です。当地では灌漑、教育、医療など様々な問題を抱えていて、問題の多くは自分たちで解決するが、医療の支援をしてくれないかと、その時に村人たちから頼まれました。アムチ(チベット医)から彼らの医学を学びながら、私のできる範囲で、出過ぎないように支援していきたいと思っています。この活動は執筆や講演等で得た資金を元に行いますが、私の所属するシェア(国際保健協力市民の会)と大谷映芳氏、神尾重則氏のドルポ基金のアドバイス、協力を得ました。またチベット研究者の貞兼綾子さんが通訳として、同行してくれることになっています。