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スペインの情報機関
■国防省
国家情報センター(Centro Nacional de Inteligencia − CNI)
:公式サイトwww.cni.es
陸軍参謀第2局
空軍参謀第2局
海軍参謀第2局
■内務省(Ministerio del Interior):公式サイトwww.mir.es
国家保安総局(Direcciуn General de Administraciуn de la Seguridad)
民間警備隊(Guardia Civil)
国家警察団(Cuerpo Nacional de Policнa)
情報総委員会(Comisarнa General de Informaciуn):委員会の構成下には、対外情報班が存在する。
フランコ後の最初の民主的特務機関、最高情報・国防センター(Centro Superior de Informacion de la Defensa − CESID)は、1977年、フランコの特務機関(社会・政治団と民間警備隊情報局を含んだ)の代わりに創設された。統一諜報機関の創設は、1976年秋、国防問題担当副大統領マヌエル・グチェラス・メラド将軍が提案した。
2001年10月15日、CESIDは解散され、それに基づき、国家情報センター(CNI − Centro Nacional de Inteligencia)が創設された。新しい特務機関の長官には、前CESID長官、正規の外交官で、元駐モロッコ大使ホルヘ・デスカリヤルがなった。ちなみに、彼は、2001年6月にCESID長官に任命されたとき、このポストで最初の文民となった。彼は、ハビエル・カリデロン将軍と交代した。
CNIには、元CESIDのエージェント2,500人が流れ込んだ。しかしながら、予想に反して、機関は、国防省の構成下に留まったが、遥かに大きな自治権を得た。その活動は、スペイン第一副大統領/内務相マリアノ・ラホイが監督している。CNIに関する法律は、同年10月12日に可決された。現在、CNI副長官は、マリア・ドロレス・ヴィラノヴァ・アロンソである。
1999年、長年に渡る(1981年から)CESID長官エミリオ・アロンソ・マングラノ将軍に対する裁判が行われた。彼は、CESIDの高位職員のグループと共に、数年間、スペイン国王を盗聴していたことで起訴された。裁判所は、マングラノに禁固6ヶ月と8年間の公職従事禁止を言い渡した。彼と共に、彼の元第一次官フアン・アルベルト・ペロテ大佐と、更に数人のスペイン諜報部将校が有罪判決を受けた。
CESIDのNo.2、ペロテ大佐は、ちなみに、ロシア語を知るソ連及び東側ブロックに関する専門家であり、電話会話のコピーを取り、一稼ぎするために、それらを家に持ち帰った(これに対しては、既に1年半服役した。)。特に、大銀行家マリオ・コンデに文書を引き渡し、政府を恐喝し始めた。録音された私的電話会話のリストとその一部の断片は、出版物、主として非常に鋭利な「ムンド」紙に公表された。しかし、これは、コンデも、ペロテも投獄されることで終わった。
■テロ対策
スペインの対テロ要員の主要対象は、バスク分離主義者の集団ETAである。公式に、スペイン特務機関の主要対テロ部隊は、特殊作戦グループ(GEO − Grupo Especiale para los Operaciones)である。これは、警察の対テロ部門としてスペイン政府により編成され、スペイン特務機関最良の専門家が勤務に採用されている。1981年、GEOは、24人の極右により占拠されたバルセロナの中央銀行突入の際、重大な試練を経た。重装備のテロリストが200人を人質に取っていたにも拘らず、作戦時、1人しか死亡しなかった。
スペイン特務機関のテロリスト、特にバスク分離主義者対策について言えば、元スペイン首相フェリペ・ゴンザレス・マルケスに言及しないわけにはいかない。彼は、1942年にセビリアで生まれた。1962年からスペイン社会労働党党員である。1966年のルーベン(ベルギー)のカトリック大学卒業後、スペインで最初の労働者のための専門法律コンサルタントを開設した。1965年から1969年まで社会党セビリア州委員会委員、1970年から党執行会議議員。1974〜1979年、スペイン社会労働党第一書記。1980年から現在まで、スペイン社会労働党書記長。1982年の議会選挙での社会主義者の勝利後、スペイン首相/政府議長。
彼の名前は、バスク分離主義者の物理的除去のための内務相指導下の「死の大艦隊」創設と、スペイン王室の電話会話の盗聴というスペインの2大スキャンダルと直結している。スペインの「死の大艦隊」とは、1983年に創設されたいわゆる「対テロリスト解放グループ」(Grupo Antiterrorista de Liberacion − GAL)である。GALの活動成果は、1983年から1987年までの27体の死体だった。更に80年代中盤から、組織構成員が民間警備隊職員であるという噂が現れた。1996年、80年代中盤にスペイン北部のバスク人住民を戦慄させた対テロ班の活動にスペイン警察の幹部が参加していたことが明らかになった。更に悪いことに、このことについて、内務相とスペイン特務機関指導部が良く周知していたことが明らかになった。政府代表とゴンザレス自身の激しい反駁は、安心させないだけではなく、スキャンダルを更に強く増大させた。騒々しいスキャンダルは、ゴンザレス周辺の数人の高官の退任と訴追で終わった。ゴンザレス自身は、退任を拒否し、社会の憤激を引き起こした。GALの活動とゴンザレスのその組織への参加の調査の発議者は、裁判官バルタサール・ガルソンだった。
■スペインでのクーデター未遂記念日のスキャンダル
2001年2月23日、独裁制復帰の重大な危険に脅かされたスペインでの軍事クーデター未遂20周年は、大スキャンダルに見舞われた。前日、一連の新聞紙上に、新しい文書が公表され、それによれば、スペインの主要特務機関CESIDは、ニュースでも何でもない陰謀への関与だけではなく、その組織と直接参加でも非難されている。非難は、先ず第1に、公開された文書から明らかになったところによれば、20年前に同組織の指導部に入った現CESID長官ハビエル・カリデロン将軍が、陰謀者の中にいたことに関係した。政府報道官ピオ・カバニリアスと国防相フェデリコ・トリリオ(CESIDは、形式上国防省に従属するが、軍事問題だけに従事しているわけではない。)は、事件が「完全に歴史の一部となった」ため、スペイン裁判所が1981年2月23日のクーデター未遂参加者に既に「正当に報いた」と表明した。一方、スペイン検察庁は、何れにせよ、クーデター関与に対する時効が、ちょうど20年後の本日満了したと指摘した。スペイン人アナリストは、執行及び司法権力がクーデター未遂に関する問題を提起するのにこれほどきっぱり不本意なのは、多くのことが依然未解明で、深入りするほど高位の者が関係していないことで説明されるという意見で一致している。スペイン議会は、木曜日、1981年2月23日の事件を幸運なことに失敗したが、民主主義を葬り去る「スペイン現代史で最も危険な」試みとして評価する決議を採択した。
最終更新日:2003/09/14
http://www2.odn.ne.jp/~cae02800/spain/intell.htm