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(回答先: 朝鮮総連の政界窓口は野中広務から森喜朗へ引き継がれた 投稿者 TORA 日時 2004 年 5 月 29 日 19:56:02)
権力者の動きのみを報じる「株式日記と経済展望」では阿修羅の事象解析はできないようだ。「有事7法」がまさに成立目前の状態で、政府・支配階級が戦争の愚を繰り返そうとしている矢先に、のんびりと「攘夷」とはこれいかに(「私のコメント」)。
>ちょうど日本を巡る国際情勢は幕末から明治維新の頃によく似ている。薩長も幕府も
>攘夷攘夷と言いながら、薩長は米英から援助を受けていたし、幕府はフランスやロシ
>アから援助を受けていた。このように外国勢力の手を借りて権力を得るのはたやす
>い。しかし反政府勢力も外国の援助をもらって反撃すれば日本は二つに分断される。
少なくともこの文章で言われている内容は意味不明である。
「国際情勢」といいながら「薩長も幕府も」とくるから文がつながらない。当時の薩長や幕府に該当する現代の勢力は何(どこ、誰)なのだ?日本を二つに分断するほどの実体がまるでつかめない。小泉と森のことか?ずいぶん矮小だな。支配階級という強大な権力機構の中での、コップの中の嵐ではないか。彼らの利害は日米同盟の維持にこそある。
よく考えないで書きなぐっているようだ。
日本は強力な「日米軍事同盟」を結んで周辺事態法をはじめとして、これにもとづきアメリカのゆくところどこまでもついてゆきます、そのためには何でもします、という性格の「有事法制」をまさに完成させようとしているではないか?
こういう事実を押し隠すためにあえて読者に目くらましをかけているのか、はたまた本当に思考能力に欠けているのか?
(中略)
>現代の日本も米英の勢力の手先となって権力を握ろうとするグループと、中国や北朝
>鮮の手先になって権力を握ろうとする勢力で二分されている。外国勢力と手を組めば
>権力は容易く手に入るかもしれない。しかしそれでは日本は米中の二つの勢力に分断
>されてしまう。だから私はアメリカ魔の手を切り、中国・北朝鮮の魔の手を叩き切っ
>ている。これは幕末の攘夷思想の現代版だ。
なんだか大混乱しているね。屁理屈をこねくり回しているだけだ。
「これは幕末の攘夷思想の現代版だ」とは笑わせるではないか。一人そう思っているのならよいが。
倒幕は、台頭した日本ブルジョワジーの活動を阻害する封建的特権階級を排除するための革命だった。
「外国勢力の手を借りて権力を得る」など認識方法に問題があるぞ。
アヘン戦争以後西欧列強に対して買弁化した中国権力者と隷属する民衆の姿を知って、日本を中国のようにはしたくないという吉田松陰の、当初の国粋主義思想ゆえの「尊王攘夷」。この革命主体は「大名」や「公家」だと松陰は思っていたのだ。しかし公武合体論(攘夷思想)に固執する権力者の動きを見て、松陰は「草莽の志士」(農工商人から下級武士まで加えた勢力を結集)による「尊王倒幕」に一大方針転換をしたのではなかったか?
庶民のエネルギーが革命運動の源泉であり、決して単に鉄砲から政権が生まれたわけではない。
このような革命勢力のエネルギーに虞をなした江戸幕府は無数の草莽の志士たちを、松陰の斬首(安政の大獄)をはじめ暗殺し続けた。残ったのはかすばかりで、こいつらが明治維新と政府を作ったのであり、松陰の理想とはまったくかけ離れた、はじめから権力亡者の集団だったのよ。ブルジョワジーにとっては当然好都合、金権政治による政界の腐敗を省みることなく対外侵略と特権の維持のためにこそ軍国主義政策と対内・対外の思想弾圧が行われた。
その結果、ゆきついたのが太平洋戦争である。
戦時下でも官憲の大弾圧に対して「攘夷」運動にも劣らぬ自然発生的な壮絶な反逆はある。
在日朝鮮人問題についても歴史認識を、国家総動員法(現代の有事法制)とのからみで捕らえなおしておかねば、みなあんたの主張にまんまと乗せられてしまう。
(この戦時下の弾圧の中で、前衛党不在にもめげず敢然と戦ったのは散発的に労使の「騒動」を起こした労働者であり、中国や朝鮮で狩り集められてきた中国人・朝鮮人であった。中国人・朝鮮人は、国内で徴用された日本人労働者同様タコ部屋に閉じ込められたが、民族差別政策で家畜以下の生活を強いられながら重労働を強制された。
彼らに残された唯一の「抵抗」は異国の地における死を覚悟した「脱走」と「集団蜂起」ではなかったのか?)
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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.
第一編 労働者運動
第四章 戦争末期における労働者運動
第二節 抑留中国人・朝鮮人労働者の闘争
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-027.html
日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.
第一編 労働者運動
第四章 戦争末期における労働者運動
第二節 抑留中国人・朝鮮人労働者の闘争
戦争中に海をこえて日本に連行され強制労働させられた朝鮮人は約一〇〇万人、中国人は約四万人と推定される――本節で主に使用した資料は、朴慶植「朝鮮人強制連行の記録」・未来社一九六五年刊、中国人強制連行事件資料編纂委員会編「草の墓標」・新日本出版社一九六四年刊、中国人殉難者名簿共同作成実行委員会「中国人強制連行事件に関する報告書」・第三編・一九六一年刊、日本炭鉱労働組合「炭労十年史」・労働旬報社一九六四年刊、などである。なお大原社研「太平洋戦争下の労働者状態」、第二編第二章参照。
「労務動員計画」(のち「国民動員計画」)によって、はじめは「募集」の形式で、ついで「官斡旋」の割当で、最後は徴用令を直接適用して、いずれも強権的に日本に連行された朝鮮人の数は、政府統計で確認されたものだけでも、一九三九年から終戦までの合計で七二万四七八七人(終戦時現在数三六万五三八二人)に上っており、このほか軍人・軍属として各地に連行されたもので明白なもの三六万四一八六人があり、また朝鮮内で動員されたものは四〇〇万人を越えていた。日本に強制連行された朝鮮人労働者のうち死亡または行方不明の数は六万四〇〇人、これに軍人・軍属の一五万人を加えると二〇万人をこえている。
中国人にたいしても、日本の占領地「満州国」において早くから毎年一〇〇万人以上の青年が「行政供出」や「勤労奉公」の名で強制動員され、また日本軍などの手で華北から大量の農民などが「満州国」に連行されたり軍要員として使われたりしていた。一九四二年には中国人労働者を集団的に「内地移入」することを東条内閣は閣議決定し、これにもとづいて、組織的に「中国人狩り」がおこなわれ、大量の一般住民が「俘虜」として収容所に拉致され、貨物船で日本に強制連行されて各地の工場・事業場に引き渡された。収容所から日本に向け出発した数は、四万人をこしたが、乗船して連行された人員は一六九回、計三八、九三九人、うち死亡者六八七二人(死亡率一七・六%)、行方不明三〇人に上った。
労働条件
強制連行されてきた、朝鮮人および中国人の労働者にたいする監督・管理や、かれらの労働条件・生活状態は、まったく残虐・劣悪を極めたものであり、ひどい民族的蔑視をともなっておこなわれた。民族差別政策は職場・職種・賃金・宿舎・食事など生活のすべての部面にわたっていた。
連行された朝鮮人労働者の半数近くは、石炭鉱山に配置されたが(朝鮮人炭鉱労働者がもっとも多かった一九四五年三月には、全国炭鉱労働者総数の三三%を占めた)、その大部分は重労働の坑内夫であり(それも突貫作業の坑道開さく、岩石掘進、水現場ひどいところ等)、土建関係でもいちばん力を要する基礎工事にふりあてられ、他の工場などにおいても同様であった(製鋼所でももっとも労働のはげしい操炉精整・圧延作業等)。労働時間も長く、平均日収も日本人労働者の半額ていどにすぎなかった。食物も日本人労働者よりずっと悪いものを食べさせ、そのことがまた日本人労働者の条件を引き下げる手段に使われた。宿舎は日本人・朝鮮人・中国人とそれぞれ区別され、厳重な囲いをつくり、相互のゆききは禁止された。労務管理もきびしく、「内務・厚生・拓務〔省〕の方針は、温情一本槍ではいかぬ。強度に組織化し強度に管理せねばならぬという点で統一されてきた」といわれ、「指導者には帰還軍人または警察官にして朝鮮において鮮人取扱の経験を有する内地人をして当らしむること。非常時に際しては全鮮人を一ヵ所に保護収容すること」(石川県尾小屋鉱山の場合)。「集団的不穏行動に備えて部隊組織となし、班長(内地人職長)――半島人監督――班員の構成となす。その他病院と連絡し、仮病による欠稼防止、守衛巡回による出勤督励、警察署との協力による逃亡防止に益々意を用うること緊要なり」(福島県高玉鉱山の場合)とされていた。
連行中国人にたいしてもほぼ同様で、内務省のきめた「取締要領」(四四年四月通牒)には、「防諜ならびに逃亡防止については特段の配慮を加え」、「抗日不逞分子の計画的潜入に特に注意し」、「逃走はもちろん事業場内外における事故は些細なるものといえどもすべてこれが報告を厳行せしむること」。「宿舎については関係者以外の出入を禁じ、特に在留華人との連絡を厳断すること」。「思想動向経歴等に関しては詳細内査をとぐると共に常にその動静に注意し、身替者(いわゆる替玉)変名者その他不穏分子の発見、不穏計画の察知につとむること」、「通信発受は事業者において取りまとめ取扱わして検閲を実施すること」などを定めた。これにもとづいて各警察署から各事業所に指示をおこなったが、その中には、「親切にすればするほど増長するをもって親切心あるいは愛撫の必要なし」、「責任は各班の連帯責任となす」、「宿舎は坐して頭上二三寸あけば良しとす。「入浴の設備は被征服者が征服者をもてなすという支那の観念があるから設備の必要なし」、「外出は一切認めざること」、「面接は内外人を問わず一切禁止のこと」、「一時帰国、家族呼寄はいかなる理由ありとも認めず」(以上釜石署の場合)、「周囲に高さ一〇尺ないし一二尺の板囲をなし、逃亡防止のため板塀の上部に電線を張りめぐらし三五〇ボルトの電流を送電す」、「憲兵隊は警察署と共に華人警備に任ず」、「写真ならびに指紋原紙(人相特長を含む)を個人別に作製保存」(新居浜署の場合)などと書かれていた。北海道の雨竜鉱山から逃亡し一三年間山中で穴居生活をした劉連仁氏は、回想談の中で次のようにいっている。――「一食の量といえば人参をきざみこんだノリのようなメリケン粉の汁がドンブリ一杯しかなかった。……数日もたたないうちに眼もあけておられず、体はいうことをきかなくなった。そうなると監督の鞭やシャベルがますます猛威をふるうようになった。王堅明はこうしてとうとう殴り殺された」(「人民中国」、一九五八年八月号)。賃金は事実上ほとんど支払われず、「監督官庁より華労に対し現金所持をなさしむるは逃去その他とばく等の行為を防ぐ一方法として現金所持をなさしめざるようとの指示もあり、現金支給をなさざりしものなり」(室蘭石炭港運の場合)とか、「華労の賃金は各人名義の郵便貯金とすべきむね指示ありたるも、郵便局に通帳用紙なきため履行不能」(砂川炭鉱の場合)などと臆面もなく書かれている。
戦時中の反抗
このような無恥な強圧的搾取と民族的抑圧は、個別的脱走から積極的反抗までのあらゆる種類の抵抗を生んだ。
一九三九年から四五年三月までに連行された朝鮮人のうち二二万人以上が逃亡した。北海道の一炭鉱では七四九人中、月平均二〇人が逃亡し、一九四〇〜四一年の二ヵ年で四九八人、逃亡率六六%に上った。日立鉱山では、四〇年から四三年までに三六五〇人の朝鮮人を連行就労させたが、四三年末の現在数は一五五〇人であり、四〇%しか残らなかった。厳重な警備対策をおこなっていた中で遂行されたこれらの大量な脱走は、日本帝国主義にたいする朝鮮人の消極的な抵抗であり、日本の軍需生産にたいする直接的な打撃となり、それの与える心理的影響は大きかった。日本銀行調査局の作成した資料「最近の軍需産業に於ける労務構成に就て」(四四年一一月)は、朝鮮人労働者の「逃亡の主なる原因は食糧不足、坑内作業の忌避と外部よりの誘惑にして、………逃亡労務者は従前の同輩に対し手紙にて更に誘惑する状態にて、これがため満期後の半島労務者は動揺多し」とのべ、一九四四年の炭鉱からの朝鮮人労働者の逃亡数として、四月上旬三四二、中旬六九四、下旬七六五、五月上旬六〇八、中旬九一〇、下旬一〇八〇という数字を示している。第2表は、一九三九年一〇月から四二年一〇月末までに炭鉱に連行された朝鮮人労働者の逃亡などの状況を示すものであり、この三年間に半数以上が失われ、連行総数の三五・六%が逃亡したことが知られる。いったん逃亡したものを発見することは困難であったが、つかまればそれにたいする虐待はひどく、拷問にたえず自殺したり死亡したものも少なくなかった。
強制連行された中国人の中からも多数の脱走者がでた。収容所に拉致されてから日本に向けて乗船させられるまでのわずかの期間にも、一〇八人の逃亡者がでたが、日本に連行されてからも困難な状況の中でつづけられ、全国一三五ヵ所の事業所で例外なく脱走がおこなわれた。たとば西松組安野出張所でも、四四年八月一七名、九月三名、一一月一名とつづいて逃亡したが、いずれも翌日までに逮捕された。「逃亡の原因は内地労働力の減少をねらい逃亡するものにして思想的色彩濃厚なり」とされ、捕えられた逃亡者には「見せしめ」の残虐な処遇がおこなわれ、死亡者も出たが脱走はけっしてなくならなかった。四五年春には日立鉱山で中国人の集団脱走があった。警察・鉱山保安係・消防・警防団がとび口などで武装し、反抗したら殺せという指示を受けて三日間山狩りをおこなった。脱走者たちは何日間も飲まず食わずで必死に山の中を逃げまわったが、多くは捕えられた。捕まることなく飢えと疲れで死んでいった者もあった。しかし生きぬいて逃亡に成功した劉連仁事件の例もあった。華北の農民であった彼は、四四年の秋、「労工狩り」でつかまって日本に連行され、北海道の鉱山で強制労働させられていたが、四五年七月に四人の仲間とともに脱走し(四人は途中で逮捕された)、それから一九五九年二月まで一三年のあいだ一人で山中に穴居しつつ恐るべき苦しみのなかで不屈に生き通し、ついに脱走に成功して祖国に帰った。
戦時中の抵抗は脱走のみでなく、集団的蜂起までをふくむ積極的な反抗としてあらわれた。その代表的な例は花岡事件である。秋田県花岡の鹿島組出張所には連行中国人九七九人(ほかに連行途中死亡したもの七人あり)が配置され、河川改修工事、鉱滓堆積場工事、同暗渠工事に従事させられたが、虐待(殴打など)と栄養失調によって、一三七人が死亡した。いろいろな方法で待遇改善を要求したが、なんの効果もなかった。四五年六月三〇日の夜、八五〇名が計画的に蜂起し、日本人補導員四名と中国人スパイー名を殺害し、全員収容所を脱走して標高二二五メートルの山にこもった。八路軍の兵士が大衆の組織にあたった。数回にわたって日本人の大部隊を撃退し、工具や石などで頑強に闘ったが、軍隊・警察・警防団によって包囲され、多数が殺され、一週間後に残った全員が逮捕され、多くの者が虐殺された。死亡者は四二〇人に上り、指導者一名無期懲役、一二名が三年ないし一〇年の懲役の判決を受け秋田刑務所に収容された。
日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始
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法政大学大原社会問題研究所(http://oisr.org)