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(回答先: 国民保護法制等特別委員会名簿 投稿者 なるほど 日時 2004 年 4 月 27 日 15:55:43)
『サンデー毎日』vol.83(No.25) GW合併号 2004/05/09-16 (毎日新聞社 \314+税 5%) 04/27 発売
これは平成版 国家総動員法!?
「小泉戦時国家体制」総仕上げ
「国民保護法案」の仰天内容(P172〜176)
年金、道路、郵便−難題山積の今国会だが、それら以上に国家の性格を大きく変えてしまう法案が今、審議されている。国民保護法案など一連の有事関連法案だ。昨年の3法に続き、その内容はより具体化した。これは平成版「国家総動員法」なのか!?
テーブルに積み上げた書類の高さは、ざっと10aはあるだろう。今国会に提出されている国民保護法案など有事関連7法案と、3件の条約批准案件の政府資料である。<中略>昨年6月に成立した武力攻撃事態法に続き、今国会では有事の際の住民避難や救済などに関する規定を盛り込んだ国民保護法案や米軍支援法案などが主な柱になる。<中略>
ジャーナリストで関東学院大講師(国際紛争防止論)の松尾高志氏が言う。「法案は、いかに効率的に戦争を遂行するか、というルールを定めたもの。軍のオペレーションを最優先するために、邪魔なものを排除する法案だ。憲法を破壊するものだ」
松尾氏によると、有事法整備へ向けた流れを決定付けたのは97年の新ガイドライン合意だったという。<中略>左の年表をご覧頂きたいが、ガイドライン見直し以降、周辺事態法の成立をはじめ、着々とスケジュール通りに法整備が進んでいる。
日本がかかわる軍事・外交をめぐる主な出来事
1938年 国家総動員法制定
1939年 9月 第二次世界大戦開戦
1945年 8月 〃 終戦
1946年11月 日本国憲法公布
1950年 6月 朝鮮戦争勃発
1952年 4月 旧日米安全保障条約承認・発効
1954年 7月 防衛庁、自衛隊発足
1960年 6月 日米安全保障条約承認・発効
1965年 自衛隊による極秘の有事法研究「三矢研究」の存在が明るみに
1977年 防衛庁が有事法制研究を開始
1978年11月 旧ガイドライン(日米防衛協力のための指針)合意
1989年11月 「ベルリンの壁」崩壊
1991年 1月 湾岸戦争開戦
1992年 6月 PKO(国連平和維持活動)協力法成立
1995年 2月 米国防総省が冷戦後の「東アジア戦略構想」を公表
1995年11月 新「防衛大綱」策定
1996年 4月 日米安全保障共同宣言
1996年 6月 日米物品・役務相互提供協定(ACSA)発効
1997年 9月 新ガイドライン合意
1999年 5月 周辺事態法など新ガイドライン関連3法成立
1999年 9月 自民党小渕派が政権構想『21世紀の国づくり』の中で「有事法制の早急な研究」を提言
2001年 9月 米国・同時多発テロ発生
2001年10月 テロ特措法成立(03年10月、期限を2年間延長する改正案が成立)
2002年 9月 敵対国・組織への先制攻撃などを盛り込んだ「米国の国家安全保障戦略(ブッシュ・ドクトリン)発表」
2003年 3月 イラク戦争開戦
2003年 6月 武力攻撃事態法など有事関連3法成立
2003年 8月 イラク特措法成立
2003年12月 自衛隊のイラク派遣活動実施要項を決定
2004年 2月 自衛隊のイラク派遣を国会承認
2004年 3月 自衛隊(550人)イラク展開が完了
2004年12月 国民保護法案など有事関連法案の国会審議が始まる
「対テロ戦略として、米国が戦争ではなく司法による解決を選んでいれば、法案に緊急対処事態などは入らず、日本の対応もまた違っていただろう」(松尾氏)
つまり、脅威に対する先制攻撃する容認したブッシュ政権への追従姿勢を鮮明にした小泉政権が、「国家の骨組みを根幹から変えようとしている」(同)というのである。
東京国際大の前田哲夫教授(安全保障論)も、「国民保護、という名称は欺瞞だ」と憤る。<中略>「自治体や民間企業を巻き込んで、米軍と自衛隊による戦争協力させるための法案だ。(憲法が禁じている)集団的自衛権の行使を可能にし、基本的人権を侵害する内容だ」
前田教授が続ける。
「しかも、(時限立法の)テロ特措法などと違い、有事法は普遍性を持っている。このような法案を民意が求めるのなら、まず憲法改正から議論すべきだ。下位の法律から既成事実化するやり方では、もはや法治国家とは言えない」
では、国民保護法案など一連の有事法案とは一体、どのような法律なのか。前出の松尾氏は法案の性格をこう解説する。
「政府が策定する基本指針に従い、都道府県、市町村がそれぞれ計画を立てるという極めて中央集権的な内容だ。さらに指針や計画の策定にあたっては、国レベルでは統幕議長、地方では自衛官や自衛官OBが参加するなど、軍事的な一貫性・合理性が強引に担保されている」
日弁連有事法制mんだい対策本部の新垣勉弁護士は、「そもそも日本の有事法制議論は、有事の際こそ強大な権限を法でコントロールし、自衛隊や行政の暴走を食い止める、という視点から始まった。ところが、その部分が曖昧だったり、行政への白紙委任が目立つ」
と指摘する。<中略>
避難住民の収容施設や医療施設を作る場合や「緊急の要あり」とされた場合、個人の土地や家屋、物資の提供を求められることになる。医薬品や食料など特定の物資についても、保管命令や売り渡し要請などが行われる。
「最大の狙いは米軍支援法案だ」
その際、正当な理由がないのに協力を拒めば、強制収用されてしまう。特定物資を勝手に処分したり、あるいは行政担当者の立ち入り検査を妨害すれば罰則規定も設けられている。
また、保護の中身である「避難」にも重大な問題がつきまとう。
警察官や海上保安官は、避難誘導の際、危険箇所への立ち入り禁止措置や車など障害物の撤去などが行える、とされる。
「こうした措置を妨害すれば、法案に罰則はないが、刑法の公務執行妨害罪などが適用される。しかも、現場に与えられる権限の基準も明確でなく、恣意的な権限行使を招くおそれもある」(前出・新垣弁護士)<中略>
民間企業への影響も深刻だ。一例を挙げよう。
同時に提出された特定公共施設等利用法案では、港湾施設や飛行場を含め、陸海空域の利用にさまざまな制約を課すことが可能になる。例えば特定の海域では、海上保安庁長官が運行可能な時間帯や運行可能な時間帯や船舶を制限することができ、違反すれば処罰対象とされる。
全日本海員組合の福岡眞人・政策教宣局長が言う。「現場の状況をまるで理解しないまま、罰則で強制する形で法律の枠組みだけ先行して決まっている。日本の商船隊の乗組員の内訳は日本人3000人に対し、外国人船員が3万5000人だ。有事となれば、多くの外国船員は下船する。有事法への協力どころか船を動かせなくなる」
このほかの法案にも目を向けてみよう。
「実は今回提出された法案のうち、最も重要なのは米軍支援法案だ」
と指摘するのは、在日米軍の監視活動や軍縮に取り組むNPO「ピースデポ」副代表の田巻一彦氏。
「日本政府や米国は日本で戦争が起きるとは思っていない。真の狙いは、米国の戦争に自衛隊が加担することへの心理的ハードルを下げることにある。例えば、米国はイラクでの補給業務の大半を民間会社にやらせているが、本心はカネのかからない自衛隊にやらせたがっている」
法案の怖さは“平時”にこそある
<中略>「有事なんて、めったに起きるもんじゃない」という向きもあるだろう。しかし、国民保護法案の“怖さ”は、平時にこそあるとも言えそうだ。
国民保護法案では、保護措置に関する「訓練」と「啓発活動」に努めることを規定している。
有事法制に詳しい田中隆弁護士によれば、他の法案と異なる国民保護法案の特徴は、平時の市民生活にも影響が及ぶことだ。つまり、有事を想定した避難訓練など普段からしなければならない。それが学校など教育現場でも行われることになる可能性は高い。
確かに条文には、都道府県や市町村が保護計画について協議する「国民保護協議会」の委員に、教育長も入ることになっている。
田中弁護士が言う。
「防災訓練と違って、有事訓練では『敵』に対する心構えが必要になる。当然、子供は『敵って誰?』と聞く。授業で国際平和を説きながら、もう一方で『敵』を具体的に説明すれば、子供の心にさざ波を立てることになる。将来的には社会科などの教育内容に影響が出る可能性もある」
同じ構図は、地域社会にもあてはまるだろう。
田中弁護士が続ける。
「国民保護法案の大きな問題点は、善良でまじめな人ほど拒否できなくなる点。『子供のため』『住民のため』と言われれば背を向けることはできない。善意を囲い込んで協力させようというのが本質だ」
前出の前田教授も語気を強める。
「いったん法律ができれば、避難活動の核になる消防団の再編や、行政の末端組織として町内会の強制組織化など関連法案が次々出てくるはずだ。戦前の国家総動員法の場合,傘下に100以上の勅令(政令)を定めた。結果、労働組合は産業報国会、政党は大政翼賛会、新聞統制も行われることになった。気づいた時には手遅れになる」<中略>
前出の新垣弁護士はこう警告する。「集団行動の価値観を優先させる訓練や啓発活動は、個人の尊厳を認めた憲法の思想を変えていく危険性をはらんでいる。提出された法案は入り口にすぎず、今後は治安維持関連法案が出てくるおそれもある。法案の実体から言えば“国民統制法”と呼ぶべきだ」
保護法案は国民の自発的な協力を原則にしているが、衆院本会議で野沢太三法相は、有事の際の行政側の要請や強制に対する「不服従権」について問われ、
「公共の福祉の観点から、合理的な範囲で国民の権利を制限し、義務を課す法律を制定することは可能」
と答弁した。
多くの識者が指摘しているように、「国民保護」が一転して「国家総動員」に変わる懸念は十分にあるのだ。
本誌・山根浩二 日下部 聡
侵略戦争遂行のために人的・物的資源を一元的に統制・運用する近衛内閣のもとで企画院が立案し、強大な権限を政府に与えるための法律が国家総動員法であった。1938(昭和13)年4月1日公布され、同年5月5日施行されたが、法案審議の過程(衆議院)において自由主義者からの批判も起きたが、法案説明中の陸軍省軍務課員・佐藤賢了中佐が議員のヤジにたいして、「だまれ!」と一喝したことに見られるように、強力な軍の圧力で結局、全会一致で可決されるところとなった。
同法の制定により、戦時において労務・物資・賃金・施設・事業・物価・出版など経済活動の全般について、政府が必要とする場合、帝国議会の審議をへることなく勅令等によって統制することが可能となった(41年に統制権限をさらに強化する改正がおこなわれた。45年12月に廃止)。
以後、同法にもとづいて、国民微用令・国民職業能力申告令・賃金統制令・従業者移動防止令・価格等統制令・新聞紙等掲載制限令・会社利益配分および資金融通令などの私企業や国民生活の自由な活動を制限・統制するための法令が矢継ぎ早に制定され、国民を戦争に駆り立てるための根こそぎ動員を可能にしたのである。
すなわち1938(昭和13)年8月24日、侵略戦争遂行に必要な軍需生産の促進のための労働力確保の方策として、まず学校卒業者使用制限令(勅令第599号)で、大学院・学部工学部及工鉱業の専門学校等の卒業生を使用するには、事業主は、その使用員数について厚生大臣の認可を受けることを義務づけた。
ついで1939(昭和14)年1月7日国民職業能力申告令(勅令第5号)をもって、機械技術者、採鉱夫、鍛工、旋盤工等軍需産業や作戦用兵上最も必要と認められた134種の技術を有する者は職業紹介所に登録することとした。
医師、歯科医、薬剤師、看護婦の登録については、すでに前年1938(昭和13)年8月24日に勅令第600号において医療関係者職業能力申告令が制定されており、1939(昭和14)年1月13日には勅令第23号で船員職業能力申告令が、また同年2月4日には勅令第26号で獣医師職業能力申告令が制定された。
続いて1939(昭和14)年7月8日には、国家総動員法第4条(「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ」)を発動して、勅令第451号で国民徴用令を制定する(7月15日施行、8月1日最初の出頭要求書送付を建築技術者に出す。この年の徴用者は850人であったが、42年には31万人を超えた)。
翌1940(昭和15)年になると、労働力の不足が顕著となり、青少年をもってこれを補わなければならない状態になっていた。
そのため、青少年を戦争遂行のための重要産業に労働力として編入する目的で、同年2月1日には、国家総動員法第6条(「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ従業者ノ使用、雇入若ハ解雇又ハ賃金其他ノ労働条件ニ付必要ナル命令ヲ為スコトヲ得」)を発動して、勅令第36号で青少年雇入制限令が制定され、一般青少年(12才以上30才未満の男子と12才以上20才未満の女子)の不急産業への雇用の規制を計った(児玉政介『勤労動員と援護』51頁)。
だが、日中戦争の泥沼化とノモンハン(中国東北部とモンゴル人民共和国の国境)で起きた日本とソ連の衝突(ノモンハン事件ー日本軍は、ソ連の近代的な機械化部隊により惨敗を喫し、対ソ開戦論は急速に後退したが、この事件は、近代兵器の前に精神論がいかに無意味であるかを証明した)よって内外の情勢がいよいよ緊迫するに伴い、労務統制のさらなる強化が必要となった。
そこで、労働者の移動および雇用等を全般的に調整する目的で、すなわち戦時下における限られた労働力(人的資源)、つまり戦争遂行のために必要な軍需生産を、有効適切な動員により一層可能にすることを目的に、1941(昭和16)年12月8日勅令第1063号をもって、労務調整令が公布され、翌年1月10日より施行された。これにより、従業員移動防止令(1940〔昭和15〕年11月9日勅令第750号)と青少年雇入制限令は廃止された(『労働行政史』第1巻931〜965頁)。
同年12月国民勤労報国協力令により勤労奉仕が義務化され、学校単位で勤労報国隊が結成され軍需工場への動員が始まった。
学徒出陣が行なわれた43年の翌年44(昭和19)年1月18日緊急国民勤労動員方策要綱が閣議決定され、国民は戦争のための生産に駆り立てられた。緊急国民勤労動員方策要綱は、「国民勤労総力ノ最高度ノ発揚ヲ目途トシ国民勤労配置ノ適正化其ノ他国民勤労能率ノ飛躍的向上ヲ図ルト共ニ軍動員ト緊密ナル連繋ヲ保持シツツ国家ノ動員所要数ヲ充足為綜合的且計画的国民勤労動員ヲ強力ニ実施スル」ため、1,国民登録制度の確立、2,国民徴用運営の確立、3,学校在学者ノ勤労動員、4,女子の勤労動員、5,勤労給源の確保、6,勤労配置の適正、7,勤労能率の増進、8,行政の刷新、9,国民運動の展開から成り立っていた(『労働行政史』第1巻1091〜1094頁)。
しかし破壊と損耗を繰り返す戦争という大消耗戦に、資材は欠乏して生産力は追いつかなかった。特に損失を重ねる航空機と船舶の増産は間に合わなく、生産されたものの性能は低劣をきわめ、資材不足はとうとう木製の航空機を組み立てるところにまで日本を追い詰めるのであった。その不足していた資材や生産された航空機等を巡っての陸軍と海軍の争奪戦も激しさを増し、戦局が不利になるにつれて、その宿命的な反目はさらに加速し、「敵は外より内にあり」といわれるまで深刻になって行くのであった。
さらに政府は、同年2月25日「決戦ノ現段階ニ即応シ国民即戦士ノ覚悟ニ徹シ国ヲ挙ゲテ精進刻苦其ノ総力ヲ直接戦力増強ノ一点ニ集中シ当面ノ各緊要施策ノ急速徹底ヲ計ル」目的で非常決戦措置要綱を閣議決定、学徒動員の徹底、国民勤労態勢の刷新、防空体制の強化、空地利用の徹底等の非常措置を講じ、一億総玉砕の途を歩もうとしていた。
いうまでもなく、戦争の長期化と戦局の悪化により、国民全体に対する動員は苛烈になる。その方策としてさされた国民の動員は1944(昭和19)年2月までに390万人(労働人口の17%)に達した(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻2頁)。
政府は動員をさらに強化するため、決戦非常措置要綱を制定したのである。同要綱は1,学徒動員体制の徹底、2,国民勤労体制の刷新、3,防空体制の強化のほか空地利用の徹底、中央監督事務の地方委任等から成り立っていたが、そのため同年3月7日学徒動員実施要綱により、2千万学徒の総力を戦力増強の一点に集中ために学徒動員の通年実施、理科系学徒の重点配置、校舎の軍需提供が、また同月18日女子挺身隊制度強化方策要綱により女子挺身隊を職域、地域ごとに結成、それへの強制加入の実施が閣議決定された。
さらに決戦非常措置要綱中の国民勤労体制刷新の方針を受けて、同年3月18日勤労昂揚方針要綱が閣議決定され、「戦力緊急増強ノ要請ニ即応シ且勤労動員ノ範囲ノ拡大並ニ勤労ノ国家性ノ強化ニ伴ヒ工場、事業場ノ勤労能率ノ飛躍的向上ヲ図リ清新ナル勤労生活ヲ確立スル為勤労精神ノ昂揚、勤労体制ノ整備及教育訓練ノ徹底ヲ中心トシテ勤労管理ヲ刷新スルモノトス」との方針の下に、1,勤労統率組織の確立、2,勤労事務機関の整備、3,勤労者の養成及訓練の強化、4,勤労考査の徹底、5,要員基準の設定等勤労配置の適正、6,勤労者の生活環境の醇化、7
,勤労衛生の刷新、8,学徒及女子の受入態勢の整備、9,協力向上の勤労管理に関する親工場の指導援助等の諸施策を講ずることとした(『労働行政史』第1巻1013〜1014頁および1023〜1029頁)。
政府は、同年2月16日国民学校令等戦時特例を公布して、勤労動員のために義務教育の年限を満12才に引下げ、同月19日国民登録を男子12〜60才、女子12〜40才に拡大した。
これらの施策により、1944(昭和19)年以降は12才以上の生徒や学生約300万人が動員されたが、未熟練労働者ばかりでは、いくら動員しても労働能率は低下するのみで、資材不足と相まって生産は停滞し続け、その目的であった生産能率の飛躍的座増大は望むべきもなかった。また女子挺身隊の結成率も同年5月現在で僅か7%に過ぎなかった(『決定版・昭和史−−破局への道』第11巻190頁)。
同時に徴兵と軍需産業への勤労動員の強化は農業生産に深刻な打撃を与え、同年2月23日文部省は食料増産に関する学徒動員について各地方長官および農業専門学校長に通牒を発し、戦時下の食料の国内自給の絶対的要請に即応すべく国民学校初等科4学年以上の兒童、青年学校および中等学校の学徒500万人動員(1944〔昭和19〕年2月24日付『東京新聞』−『新聞集成・昭和史の証言』第18巻101頁)を、また同年3月3日食料増産の空地利用を閣議決定したが、米の生産は激減し、その上外米輸入も途絶え、同時白米は「銀めし」といって珍重され、同年5月”勝ち抜くため南瓜をつくりましょう“と女子大生の宣伝挺身隊が都内各所で呼びかけるところまでに落ち込み、同年8月11日の最高戦争指導会議で軍需大臣藤原銀次郎が「既に現状に於て主要食料は一応確保し得るも、爾余の諸産業は全面的に操業を短縮もしくは中止(中略)現状程度の国民生活を(爾後は)維持することも遂次困難となる趨勢にあり。即ち戦争第4年たる19年末には国力の弾発性は概ね喪失するものと認められる」との軍需省見解を読み上げなければならないほどに逼迫するのであった(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻2頁)。
そのため44年8月には学徒勤労令を公布して、中学生以上全学生の工場配置が強行された。こうした政策による動員数は終戦時には約340万人にも達し、このうち原爆を含む空襲等で死亡したものは11,000人に及んだのである。
女子勤労挺身隊
また戦時中の女子勤労動員は、主として1943(昭和18)年9月創設の女子挺身隊(14歳以上25歳以下)によって行われたが、当初この制度は、法律に基づいて結成されたものではなく、市町村長、町内会、部落会、婦人団体等の協力によって家庭の遊休婦人を中心に結成されていたもので、動員体制としては消極的政策であった。これは女子徴用は、「日本の家族制度の特質に鑑み相当の考慮をすべき」という意見に対する配慮であった。
しかし戦局悪化による労働力の逼迫化は、このような主張を吹き飛ばすに充分だった。政府は、翌1944(昭和19)年8月23日に勅令第519号をもって、女子挺身勤労令を公布、即日施行したが、これにより女子挺身隊制度は法的な根拠を与えられ、以後女子に対する容赦ない徴用が実施された。国家総動員審議会における提案理由は、次のとおりである(『労働行政史』第1巻1121〜1134頁)。
「現下ノ緊迫セル戦局ノ下ニ於テ戦力ノ飛躍的増強ヲ図ルコトノ緊要ナルコトハ申ス迄モナイ所デアリマス。而シテ之ガ為ニハ相当多数ノ勤労者ヲ必要トスルノデアリマスガ他面一般男子ノ勤労給源ハ相当逼迫セル状況ニアリマスノデ、此ノ際女子ノ勤労ニ期待スル所極メテ大ナルモノガアルノデアリマス、政府ニ於キマシテハ従来女子ノ勤労動員ニ付キマシテハ時局段階ニ即応シ夫々施策シテ参ツタノデアリマシテ、特ニ昨年9月勤労ノ態様トシテ新ニ女子挺身ヲ自主的ニ組織セシメ相当ノ指導者ノ下ニ団体的ニ長期出勤ヲナサシムルノ制度ヲ創設致シマシテ既ニ行政官庁ノ指導勧奨ニ依リ女子挺身隊ニ加入セル女子ノ数ハ数十万ニ達シテ居ル状況デアリマス、而シテ今後更ニ本制度ヲ強化シ女子ノ勤労動員ヲ促進スル為ニハ明確ナル法的根拠ノ下ニ女子挺身隊ノ加入、出動ヲ的確ナラシムルト共ニ之ガ受入態勢ヲ刷新強化シ其ノ保護ニ付万全ノ措置ヲ講ジ以テ女子ヲシテ挺身勤労愛国ノ至情ヲ尽サシムルコトガ肝要デアリマスノデ茲ニ国家総動員法第5条及第6条ニ基ク勅令ノ御制定ヲ仰ガントスル次第デアリマス、本勅令ノ運用ニ当リマシテハ特ニ皇国本来ノ家族制度ト女子ノ特性トヲ考慮シ徒ラナル強権ヲ発動ハ厳ニ之ヲ戒メ決戦下皇国女子ノ愛国心ニ訴ヘ挺身勤労ヲ指導スルト共ニ受入態勢ノ整備強化ニ重点ヲ置ク方針デアリマス」。
なお、同令は45年3月の国民勤労動員令に吸収され、挺身隊も国民義勇軍に再編成された。
国民徴用令(白紙召集)
軍需工業の労働力を確保するために、国家総動員法にもとづき39(昭和14)年7月8日(15日施行)に公布された勅令が国民徴用令である。これにより厚生大臣は徴用命令をだし、強制的に職場を転換させることができ、徴用に応じない者には、国家総動員法第36条第1号により1年以下の懲役又は1000円以下の罰金が課せられた。
徴用者には白い命令書が渡されたので、軍隊の「赤紙(あかがみ)」(赤い色の召集令状)に対して「白紙(しろがみ)召集」と呼ばれた。
当初は、39年1月の国民職業能力申告令による登録者のみを対象としたが、40年には登録者以外の国民も徴用できるように改正された(船員には別に船員徴用令が適用された)。
なお同令は、45年3月に公布された国民勤労動員令に吸収され、同年10月に廃止された。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kokkasoudoinnhou.htm