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■ 落書き反戦とは?
都内在住の青年Kさんは、2003年4月17日に東京都杉並区の公園の公衆トイレに落書きをして逮捕され、28日に起訴されました。現在、Kさんは、状態復帰が可能なこの落書きに対する「建造物損壊」という検察の不当な重刑攻撃に抗して闘っています。社会的・政治的な主張(反戦)を伴った落書きへの重刑攻撃に抵抗し、表現の自由の可能性を追求しよう ── それが「落書き反戦」です。
当ウェブサイトはKさんの闘いを支援している落書き反戦救援会が運営するものです。お問合せは同救援会までよろしくお願いいたします。
-> Kさんの落書き〈写真〉
★ 公判の度に明らかとなる検察の無茶な起訴次第
2003年4月、東京都杉並区の公園トイレ外壁に一人の若者が「戦争反対」等と書きました。この若者を近隣住民の一家が追跡し、パトロール中の警官に通報しました。その警官は杉並区の意思を確認することなく「器物損壊」容疑で若者を逮捕しました。「器物損壊」は親告罪なのですが。翌日になって杉並区公園緑地課長が区長にも相談せず、自分の名義で若者を「器物損壊」で告訴しました。区の施設の名義人は区長なのですが。数日後、検察が罪名を「建造物損壊」に格上げして起訴しました。若者は44日間の未決勾留のあと保釈されました。9月現在裁判中です。
ウェブサイト「杉並区:落書天国反戦地獄」より転載
★ 経 過(新しい順に記載)
・Kさんは控訴することを決め、現在手続き中。
・2004年2月12日午前、判決公判。懲役1年2月・執行猶予3年の判決。
・12月17日、第五回公判。検察の論告求刑、弁護人の最終弁論、Kさんの最終意見陳述が行われました。
・10月29日、第四回公判。弁護人によるKさんの尋問。検察は沈黙し、反対尋問を一切行いませんでした。
・10月2日、第三回公判。被告側証人として矢部史郎氏が出廷。職場の同僚として証言。
・7月31日、第二回公判。Kさんを逮捕した警官と、厳罰を要求する杉並区公園課課長が、検察側証人として出廷しました。
・6月16日、「反戦落書き裁判」の第一回公判が、東京地裁406号法廷でひらかれました。Kさんは冒頭意見陳述で「私が書いた「戦争反対」、「反戦」、「スペクタクル社会」という文字は、人々に受け入れられるべきだし、消されるべきではないと考えます」と主張。弁護人はあらゆる角度から無罪を主張ました
・5月30日(逮捕から44日後)、勾留理由開示公判を流すかたちで、保釈をかち取りました。保釈後、Kさんと支援者らが渋谷の反戦デモに参加。
・5月中旬、反戦落書き青年Kさんのための救援会が結成され、保釈請求と勾留理由開示公判の手続がとられました。
・4月28日、検察が容疑を「建造物損壊」(注2)に格上げ、起訴。
・この事件に対し、警察・検察は執拗な取り調べと家宅捜索を行い、落書きとしては異例の長期勾留を続けました。
・4月18日、Kさんの逮捕を知った友人たちが、留置された荻窪署へ向かい、衣類や現金などを差し入れ。職場の同僚が彼が抜けた穴埋めや弁護費用の立替えなど、勾留されている間の支援をしていくことを決めました。
・4月17日夕刻、東京都杉並区の小さな児童公園で一人の青年(Kさん)が赤と黒のラッカースプレーで自宅付近の公衆トイレの外壁に落書きをしていたところを現行犯逮捕されました。逮捕容疑は器物損壊。落書きの内容は「戦争反対」、「反戦」、「スペクタクル社会」(注1)。
・2003年3月20日、米英がイラクへの侵略戦争を開始。小泉政権はこれを支持。
◎ 注1:スペクタクル社会
1950年代、フランスの思想家、ギードゥボールが唱えた概念。多くの人々が受動的な観客の位置に押し込められた世界、映画の観客のようにただ眺めることしか残されていない、資本主義の究極の統治形態をいう。ギー・ドゥボール著『スペクタクルの社会』参照。
◎ 注2:建造物損壊
「器物損壊」が「3年以下の懲役、30万円以下の罰金若しくは科料」であるのに対し、「建造物損壊」は「5年以下の懲役」。トイレの外壁を汚したという程度の行為に「建造物損壊」を適用するのはきわめて異例。
★ 2004年2月22日、東京・渋谷で行われたレイヴデモ・シンポでまいた判決を弾劾するビラからKさんの声明を紹介:
■ クソッタレな2月12日! by K
私が公園のトイレの外壁に落書きして「建造物損壊罪」に問われている落書き裁判、この判決公判が2月12日に行われた。懲役1年2ヶ月、執行猶予3年という、断じて許せない、ありえない不当判決だ。マジふざけんな!
本裁判で問われている「建造物損壊罪」は外観・美観を著しく損ねるという観点からだが、いったい私の落書きでどれだけ著しく美観を損ねたというのか。当たり前だが、トイレは使用できるし、何より私の落書きで公園にアクセスするのをためらう人などいるのか。もしいたとしたら、その人はウルトラな都市浄化論者だ。
はっきり言えば、私は今、どん底だ。ありえない有罪にされ、実名報道もされた。落ちるところまで落ちた。もう失うものはあまりない。
私は今、どん底である一方、最高に面白い。権力は私を、落書きを徹底的に弾圧してきた。ここまでされた以上、こっちも徹底的に反撃する。仲間と共に。
被害がなんだ、美観がなんだというのか。この過剰で薄っぺらい私有財産制に基づいた論理を糾弾していく。裁判内外問わず。
街路を放棄しているのは私たち自身なのだ!
落書きは至るところにある。これは都市の住人なら了解済みのことである。
都市浄化論者は落書きを排除しようとする。事実している。メディアも自治体も住民もこの上なく取り込んで。ここは、私たちの領土だから汚すな、と言わんばかりに。さすが、浄化都市東京という様相である。
都市浄化論者は落書きを排除するために「公共性」を引き合いに出したりする。落書きによって多数の人に迷惑がかかると言うのだ。これによると多数の人に受け入れられることが「公共性」に結びつく。街路を消費者のようにただ歩いたりとか、公園で休んだり、お喋りするとかは概ね問題ない。しかし、街路や公園に落書きしようものなら都市浄化論者が黙っちゃいない。つまり私たちは、都市を変形させてはいけないと言われているようなものだ。結局、社会は落書きを今まで以上に犯罪視し、街路をただの道路にする。そのせいで落書きする者は「不法者」として排除される。恣意的に。
だが、それとは関係なく「落書きしたい」という欲望は当然だ。純粋だ。そして落書きをする。白い壁が存在する限り、落書きはなくなることはないのだ。
そもそも「公共性」とは曖昧である。「公共空間」って? これも曖昧だ。そこでできる行為はあらかじめ決められていたり、規制され、自制したりする。これにより、私たちの欲望は押さえつけられる。皆が言うところの「公共性」、「公共空間」とは万人に受け入れられる行為・空間を指すのではないだろうか。しかし、そんなものほんとうにあるだろうか。ないだろう。
一時的でもいい。「公共空間」ということではなく、「私的空間」をつくっていこう。その時、わたしたちは街路を贅沢に使うことができるだろう。