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http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050105/mng_____tokuho__000.shtml
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観測史上空前の十万人を超える犠牲者を出したスマトラ沖地震津波。震源の北北東約二百五十キロにあるインドネシア・スマトラ島北部のアチェ州州都バンダアチェは、被害の大きさから「グラウンド・ゼロ」と呼ばれる。被害状況を調査している地元サンビイマカ大学のイシウル・マブドルミス教授に同行し、発生から十日、復興への道ははるかに遠い現地を見た。 (バンダアチェで、蒲敏哉)
マレー半島とマラッカ海峡を挟んで南に位置するスマトラ島。北端の州都バンダアチェは、西側の一部の丘陵地帯を除くと一面海抜一メートルの平野が広がる。豊かな田園風景があった風景は今、がれきが散乱、ヒトもウシもヤギも泥に埋もれ、街中が腐臭に満ちた地獄絵と化している。
イシウル教授は農業が専門。教授仲間も行方不明になっており、四輪駆動のトラックで被害調査を兼ねて捜索活動を続けている。
街の中心街、州議会議事堂は避難した人たちで足の踏み場がないほどだ。モスク、講堂など無事だったあらゆる建物の床はすべて人で埋まっている。
やがて市内で最も大きなスーパーマーケットの倒壊現場に来た。コンクリート四階建ての建物は、屋上からすべて雪崩のように崩壊しており、まわりには人だかりができていた。
オーナーのアブバカル・ウスマン氏(54)は「二十六日午前七時五十分(日本時間同日午前九時五十分)ごろ、十分以上続いた大きな横揺れで倒壊した。商品は壊滅状態だが、従業員は午前十時の開店前で無事なはず」と説明する。
だが、イシウル教授は「実は開店前、警備員や掃除係、仕入れの従業員など約十人がいたという。周辺の人たちは、なんとかしたいと、ここに集まって来ている。しかし、重いコンクリートがこんなに重なってつぶれては…」と複雑な表情をみせた。
市街地を出て、十キロ近く北の海岸を目指すと、高さ約三メートルのがれきの山が目立つ。ふと気が付くと、道ばたにたくさんの大きな黒いビニール袋が並んでいる。
イシウル教授は「すべて犠牲者。埋葬する穴を掘るのが間に合わなくて、放置されてしまっている」と顔をしかめる。中には、腐敗が進み袋から飛び出してしまった遺体もあった。
道路のあちこちに、新しい土盛りや、幅三メートル、長さ十メートルの“堀”もいたるところにつくられている。この街全体が墓場になりつつあることに気付く。
海岸沿いになぎ倒されたヤシの木を指さし、イシウル教授は「地震の後、津波は三回来たが、震源地のある西海岸からだけでなかった。島北端のこの街を取り囲むように、北や東海岸からも波は押し寄せた。一回目は高さ二十メートル、二、三回目は十五メートル。海底地震の直接的な影響に加え、マレー半島と狭い海峡を挟んで、波が複雑に反射したのではないか」と分析した。
海岸通り沿いを行くと、「SERAMBLI INDONESIA」の看板を付け、輪転機が屋外に転がっている二階建ての建物が見えてきた。パソコンなども散乱、オフィスだったことがうかがえる。
イシウル教授は「この街唯一の新聞。地震、津波以前は同じ建物が四棟あったが、土台からすべてなくなっているね」とつぶやく。
オートバイで様子を見に来た同社販売部のジャイラニ・ユニスさん(40)は「災害当日は日曜日の朝、記者や印刷職員など約二十人いたが、全員行方不明。それでもうちしか新聞がないから、なんとか出せないかと頑張った」と話す。
「本社から南へ約二百六十キロの支局で、二十八日から印刷し、そこからここへ運び集会所や交差点近くで無料で配っている。今ほど地元のニュースが求められている時はないからね」と誇らしげに続けた。
イシウル教授は「海岸沿いの新興住宅地は大型の敷地で富裕層が多かった。しかし、災害は貧富の差もなく、すべて同じように人々を襲った」と振り返る。
道ばたに立ち尽くす男性がいた。
アチェ州のズルキフリ・ハッサン州議会議員(35)は「三人の子どものうちランニングに出かけていた長女(14)が行方不明になった。三日間、必死で探したけど分からない。もうあきらめかけている」と顔をくしゃくしゃにして訴えてきた。
「ほとんどの財産を失った。家族はとりあえず南の街メダンに避難したんだ。メダンから首都ジャカルタまで行きたい。航空運賃を出してもらえないか」
■地震津波前は閉ざされた街
バンダアチェはインドネシア国内のイスラム原理主義運動の拠点でもあり、独立派武装組織「自由アチェ運動(GAM)」が武装闘争を続け、非常事態宣言が出されていた。事実上の戒厳令の下、地震津波の発生以前は、マスコミに閉ざされた街だった。
ライフルを背に復興活動を警備するインドネシア陸軍のハリス・サルジャナ中佐(39)はこう明かす。
「戒厳令は通常の生活があって初めて効力を発揮する。大地震と津波の前では国の政治的影響力なんてなきに等しい。今は、戒厳令を吹き飛ばした、まさに人類の非常事態と言えるのではないか」
■現地調査の地元大学教授イシウル氏に聞く
今回の地震津波の地域に与える影響などをイシウル教授に聞いた。
――被災地はどんな土地だったのか。
「バンダアチェは人口約二十七万。市街地以外は肥よくな平野が広がり、コメ、ココナツ、ドリアンなど豊かな作物が収穫できる。しかし、地震、津波はこうした平地を塩水で埋め尽くし大きなダメージを与えている。土の入れ替えをしなければ復興は難しい」
――今回の地震をどう受け止めているか。
「スマトラ島は日本と同じく地震が多い地域。しかし、津波被害は一九〇〇年に一回あっただけ。今回の揺れは、経験があった細かい縦揺れ、横揺れと異なり、荒れた海で船に乗っているような、大きく、ゆっくりした横揺れだった。非常に特殊な揺れを感じたことは間違いない。さらに、海の底から三回、爆発音のような音も聞こえた」
――大型施設の倒壊の多さをどう分析するか。
「市街地の大型建物の倒壊は、政府の地震対策の無策を物語っている。日本の援助による大学施設は無傷だが、国産の建物はセメントに砂が多く、工法も簡易に済ませすぎている。国際会議用に屋上に一階建て増しした五階建てのホテルは崩壊している。地震国として今後、日本並みの建築基準が論議されることになるだろう」
――今後の復興の道は。
「想像を絶する悲劇の中にも、少しの光が見える。この災害で独立派武装組織と国軍の間で緊張が若干和らいでいることだ。双方が多くの家族、友人を失った。そこで命のはかなさや助け合いの大切さを知っただろう。私たちは悲劇を和平への道へと、今こそつなげていかなければならない」
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写真はバンダアチェの被災状況 Getty Images
IDN: Aceh Struggles After Devastating Quake
http://editorial.gettyimages.com/source/search/FrameSet.aspx?s=EventImagesSearchState|1|0|30|0|0|1|0|0|0|51913709|0|0|0|0|0||0|0|0|0&p=7