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(回答先: 「潜水調査終了」とでたらめ発表! 沖縄の怒りは止められないぞ [シンさんの辺野古日記] 投稿者 なるほど 日時 2004 年 9 月 29 日 21:50:16)
日本平和学会ニューズレター
VOL.15 NO.4 2003 年9 月20 日
が絶対的貧困の状況に置かれている。従来の経済成長中
心の開発戦略は貧困問題を十分解決せず、経済のグロー
バル化の下で、貧富格差はますます拡大している。また
貧困や貧富格差やさまざまな差別は冷戦終焉後の世界
で増加している地域紛争の原因にもなっている。環境破
壊は地球社会が直面する大きな問題であるが、成長中心
の開発戦略は環境破壊や資源収奪を進める一方で、貧困
と環境破壊の悪循環も世界各地で見られる。人権の促進
やジェンダー平等をめざしてさまざまな国際条約がつ
くられてきた。しかし成長中心の開発戦略は抑圧を正当
化する根拠となってきた側面があり、ジェンダー格差を
生み出す要因となってきた。その一方で、文化や伝統の
名の下に、差別や抑圧を正当化する議論も聞かれる。
開発、環境、人権、ジェンダーなど、グローバルな諸
課題の根源の解明やこれらの関連性の検討、「構造的暴
力」の克服や「人間の安全保障」のための新しい価値や方
策の提示は平和学にとって重要な課題となっていると
いえよう。
本 巻では、グローバル化が進む今の世界で、貧困解消、
環境、人権、ジェンダーのグローバルな諸課題について、
相互の関連を考慮しつつ、問題の根源を解明し、既存の
パラダイムを批判的に検討し、平和学の観点から新しい
価値や方策の提示を試みる。
グローバルな諸課題と関連して、「人間の安全保障」
や「持続可能な開発」といった概念が世界的に提起され
てきた。あるいは、グローバルな諸課題は従来の国家間
の関係だけでは解決が難しく、国際機構、NGO などの
市民社会組織の取り組みは注目を集めてきた。本巻では
グローバルな諸課題への注目が高まる中で新たに提起
された概念、注目が集まったアクターの役割について平
和学の視点から再検討を行いたい。また、周縁化されや
すい人々――本巻で扱う例としては子どもと難民――
がどのような問題に直面しているのか、具体的な地域を
事例にあげながら貧困、人権侵害やジェンダー差別など
の諸問題がどのように地域紛争に結びつくのかを考え
たい。
エッセイ 平和研究の周辺
日本平和学会設立30 周年という節目の研究大
会が、沖縄大学で開かれた。平和学会が、沖縄で
研究大会を開くのは、24 年ぶりである。前の大
会が開かれたのは、1979 年、西川潤会長のとき
である。このときの会場は、パシフィックホテル
というホテルであった。沖縄大学で開きたくとも、
大会を開くだけの場所も設備もなかったのであ
新崎盛暉
る。
1972 年、沖縄が日本に返還されたとき、沖縄
には、琉球政府立の琉球大学と、私立の沖縄大学、
国際大学という三つの四年制大学があったが、米
軍政下に設立されたこれらの大学は、いずれも日
本の大学設置基準を満たしていなかった。日本政
府は、琉球大学は国立として吸収し(大学内部に
は、少数意見だが公立・県立構想もあったという)、
二つの私大には、10 億円の補助金を出し、特別
融資も行うので、統合せよ、と指示した。国際大
学は積極的に、沖縄大学の経営者は消極的にこれ
に同意したが、沖縄大学の教授会の半数、事務職
労や学生自治会の多数は、「建学の理念(どれほ
どの理念があったかは別だが)を異にする私大が、
国策によって統合されること」に反対した。世論
もそのタテマエを支持した。沖縄大学は、満身創
痍で、「復帰」を乗り越えた。あえていえば、米
軍政下に設立され、日本復帰によってつぶされか
けた沖縄大学は、国家の特別な政策的支援に何一
つ依存することなく、自力で約半世紀を生き延び
てきた沖縄で唯一の大学である。沖縄大学は、今
年で、設立45 周年を迎える。
復帰後、日本政府の対沖縄政策の中心的課題は、
如何にして、75 %もの在日米軍基地が集中する沖
縄を日米同盟の軍事的中枢として維持し続ける
か、にあった。過度に集中する軍事基地を受け入
れさせる最大の手段は、特別の制度的財政的支援
であった。その影響は、大学にも及ぶ。たとえば、
基地の傍の大学が校舎等の施設をつくる場合、基
地周辺整備事業として、建設費の実に95 %が補
助される。また、地域住民の不満解消と軍事機能
の効率化をはかるために米軍基地の再編統合・分
散化政策がとられる場合、米軍基地移設先にある
大学のキャンパスには、地域振興策の一環として、
さまざまな施設が建設される。
こうした場合、このような大学等に所属する研
究者は、どのように対応すべきだろうか。
こうした現実に目をつぶって、平和学の観点か
ら、沖縄戦を、軍事同盟を、日米地位協定を研究
し、学生や社会に対して、平和を語ることが可能
だろうか。沖縄社会は、日常生活の次元で、常に
こうした問いに応えながら生きていかなければ
ならない社会である。その意味からすれば、沖縄
ほど平和を語りにくい場所はない。
逆にいえば、それだからこそ、設立45 周年の
沖縄大学で、設立30 周年を迎えた平和学会の研
究大会を行った意味があったといえる。沖縄大学
という小さな大学が、日本のなかでもっとも激し
い変動を体験してきた沖縄で、45 年も生き延び
ることができたのは、それ自身の努力もさること
ながら、「平和」と「自立」を求める沖縄の社会
的雰囲気がこれを支えてきたからである。5 年後、
沖縄大学は50 周年を、平和学会は35 周年を迎え
る。そのとき沖縄は、そして世界はどうなってい
るだろうか。
私はドイツ平和運動の仲間と、1997 年、2000
年に続き、今年3 回目の沖縄訪問を果たした。6
月21 〜22 日に、よく組織され興味深い日本平和
学会の大会に出席し、その翌日には島内観光にも
参加した。3 日間を通じて私たちは、多くのおも
しろい話し相手と知り合いになった。そうした話
の様子をドイツの平和運動で報告し、新たな知見
を「独日平和フォーラム」が2001 年8 月末より
各地で開催している「沖縄展」にも盛り込もうと
沖縄は、長く魅力的な歴史をもつ島だ。とくに
感銘を受けるのは、沖縄が武器なしにやってきた
琉球王国の黄金期だ。逆に衝撃的なのは、あれほ
ど多くの地元住民が自ら、あるいは近親者の手で
命を失った、1945 年沖縄戦での人々の悲惨な運
命だ。人間をあのような非人間的行為に駆り立て
る教育と集団圧力は、なんという力を持っている
ことか。そして、敵のイメージは、なんと強力で
私はまた、1945 年以後、沖縄全島を軍事基地
化するため、人々がどのように土地を追われ資産
を没収されたかについてもショックを受けた。住
民の苦悩は計り知れない。ドイツ人も、自分たち
がはじめた戦争に敗れた後、暮らし向きが悪くな
った。家を再建し、仕事を見つけるのに、なかな
かうまくいかなかった。ただ、何年にもわたって
生存基盤を持たなかった沖縄住民のような飢餓
行進はしないで済んだ。
沖縄でもドイツでも、米国は軍事基地を建設し
た。1955 年ドイツは公式に主権を回復し、1972
年沖縄は日本に復帰した。私の故郷である西ベル
リンは、1994 年まで主権を持たなかった。ベル
リンは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の
軍事占領地帯だったのである。私が沖縄の人々と
の強い結びつきを覚えるのは、軍事占領と軍事基
地の問題を自らの経験として知っているからで
あろう。当地でも、占領軍兵士による殺人、傷害
致死、婦女暴行があった。
私たち両国民は、今日に至るまで軍事基地を耐
え忍んでいる。日本では日米安保条約と日米防衛
協力のための指針、ドイツではNATO 条約によ
り規定がなされている。それによって米国は広範
な権利をえ、治外法権地帯のように軍事基地を動
いている。たしかにドイツの当局は、たとえば環
境関連の法律が侵害されていないか点検する査
察権を有しているが、実際にそれは行使されてい
ない。米軍基地の費用は、日本政府は100%負担
しているが、ドイツは25%である。
日独が似ているのはまた、憲法上戦争への制約
がある点である。日本では憲法第9 条で、軍備が
禁止されている。ドイツでは、侵略戦争の準備が
禁止されている。しかしどちらの国でも、現行憲
法はますます空洞化している。ドイツは1999 年、
NATO による国際法違反の対ユーゴスラヴィア
戦争に参加した。そして、2001 年にはアフガニ
スタン、2003 年にはイラクへの戦争に加担して
いる。
ドイツのイラク参戦は、
・「アフリカの角」への艦隊の派遣
・クウェートへの生物・化学兵器対応部隊の派遣
・ドイツ領内の米軍基地の使用と領空通過の許可
を通じて行われた。シュレーダー首相は、一種
の二重戦略を追い求めた。表向きは、国連安保理
でイラク戦争に反対した。しかし実際には、こう
した措置を通じて戦争を後押しした。
日本も今や海外派兵を企てている。つまり日独
両国は、平和憲法にもかかわらず、ますます戦争、
とくに米国の戦争に引きずり込まれようとして
いるのである。
2002 年11 月、米国政府は新たな安全保障戦略
を決定した。それにより、米国は将来予防戦争、
つまり緊急の脅威を及ぼさない国に対して戦争
を行うことが可能になった。予防戦争は国連憲章
で禁止されている。この新しい安保戦略による最
初の予防戦争が、対イラク戦争だった。
こうした戦争を可能にするため、世界中の軍事
基地が改編されている。それはもちろん、日本(と
くに沖縄)にもドイツにも当てはまる。特定の軍
事基地は解体され、別の基地は強化される。今回
沖縄各地をめぐり、嘉手納空軍基地が強化され、
辺野古の海上基地(ヘリポート)が新設されるの
を目の当たりにした。ホワイトビーチ海軍基地や、
ジャングル戦の訓練が行われる北部訓練場も、引
き続き重要である。他の多くの基地は意義を失っ
たように見え、事実ほとんど、あるいはまったく
使われていない。ところが実に許し難いのは、伊
江島や読谷村など、何一つ日本側に返還されない
ことである。
その読谷村では、基地収入や東京からの補助金
によらない自立的経済をめざす素晴らしい活動
を見聞した。ドイツでも、基地収入がなければや
っていけないと多くの人が考えている地域があ
る。この考えは克服されねばならない。軍事基地
に対し沖縄の人々がいかに抵抗してきたか、私は
感動しながら読んだ。だが、今では少なくない
人々が基地に慣れっこになってしまったように
見える。この慣れは非常に危険だ。基地が憲法に
違反することを忘れてはならないからである。米
国の戦争を支援すればするほど、日本とドイツは
新たな敵をつくり、自ら攻撃や報復行為の目標に
なるのである。
次の戦争が幾つも起こりそうだ。目下のところ、
イランあるいは北朝鮮への戦争がありえそうだ。
そこでまた日独は、米国を支援するのか決断を迫
られることになる。
イラク戦争に際し、ドイツではこうした状況が
広く意識され、何千人もの市民が何度も米軍基地
を封鎖した。予防戦争、国際法違反を決して許し
てはならない。一緒に抵抗することが不可欠であ
る。私たちの最大の願いは、経験の相互交換、代
表団の訪問、相互の行動参加で、日本の平和運動
と密接に協力することである。共同で軍事基地反
対の国際的ネットワークを形成できれば、さらに
素晴らしいと思う。
〔ハンス=ペーター・リヒター氏は1941 年生
まれ。1981 年より平和運動に従事。ドイツ平和
評議会理事、独日平和フォーラム創設メンバー〕
翻訳:木戸衛一(大阪大学)
http://wwwsoc.nii.ac.jp/psaj/jnl/psajnl1504.pdf