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(回答先: (更新板) 鉄とガラスの遺跡を訪ねて【歴史倶楽部】丹後半島の旅:先史・縄文時代〜弥生時代 投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 7 月 04 日 13:22:11)
(初版は、引用元のURL変更により、画像の殆どが表示不能となったので、管理人さんに削除して頂きました。今回、変更後のURLを引用して、更新版をUPします。)
★ 我がルーツを辿る_(1)遺跡概観_(1-2)丹後半島の旅:古墳時代〜中世以降
■ 古墳時代
古墳時代になると、丹後半島には数多くの古墳がつくられるようになる。中でも、4世紀末ごろ築かれたと推定される日本海側最大の
2つの前方後円墳、網野銚子山古墳(網野町)と神明山古墳(丹後町)は、相当大きな勢力をもっていた一群が当時この地方に存在し
ていたことを証明しているし、蛭子山古墳・作山古墳が所在する加悦町には、総数644もの古墳がひしめいている(加悦町教育委員会)。丹後はまさに古墳の宝庫と言ってよく、丹後半島全体の古墳の数は約6000基である。その上位3つは、・網野町の銚子山古墳(全長198mの前方後円墳)−日本海沿岸部で最大の古墳・丹後町の神明山古墳(全長190mの前方後円墳)−丹後町古代の里資料館の側・加悦町の蛭子山古墳(全長145mの前方後円墳)−加悦町古墳公園内であるが、他にも著名な古墳として黒部銚子山など大型の前方後円墳がある。丹後の遺跡の多くが、竹野川に沿っている。この川は、1927年の大地震を起こした郷村断層に沿って流れ、大宮町と峰山町の間で断層を離れて丹後町へ向かう。
丹後の墳墓形式:北陸・中国地方との比較 |
弥栄町と峰山町との境にある太田南古墳群の一つである「5号墳」からは、「青龍三年銘方格規矩四神鏡」が出土している。青龍三年は魏の年号で、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(238)の三年前にあたる。この年号の鏡は、あと大阪府高槻市の安満宮山古墳から1面が出土しているだけで、年代的に、卑弥呼の使いが魏から貰ってきた銅鏡100枚の内の1枚ではないかと騒がれた。今年(2002)6月になって、東京国立博物館の鑑定により、個人蔵の鏡に同年号のあることが確認され、全国で青龍三年銘の鏡は3面となった。
鉄とガラス。この2つの出土物は、丹後地域の古代遺跡を語るとき、今や不可欠の要素である。1990年代以降の発掘調査の結果から、丹後地域は弥生中期後葉から後期(前1世紀〜後2世紀)にかけて、日本列島のなかでもこれら大陸の先進素材を北九州と並んで、最も早く、最も多く集積した地域であることが明らかになった。弥生時代に製鉄が行われていたかどうかについては議論の分かれる所であるが、弥生時代を通じて行われた「鉄」の生産は古墳時代になっても続けられている。
奈良時代に隆盛を見た、最古の製鉄コンビナート遺跡である弥栄町の遠所遺跡(5世紀後半〜6世紀後半と8世紀後半の一大製鉄遺跡が出土した。)。最古の玉造り工房跡である同じく弥栄町の奈具岡遺跡や、久美浜町の湯舟坂2号墳から出土した、明らかに権力者が所有していたと考えられる黄金の環頭大刀(重要文化財。6世紀後半〜7世紀前半)など、古代丹後地方が大きな勢力をもっていたことを物語る遺物が数多く発見されている。
四隅突出型墳墓 |
これらの事実から、最近いわゆる古代「丹後王国」の存在についての議論が盛んである。大陸や半島、北九州や他の日本海地域との交流などを窺わせる豊富な副葬品や、鉄とガラスの他地域に先駆けての先進性などを考えると確かに「王国」の存在を窺わせるに足る十分な条件を備えているように思える、しかし、私がその存在を強く予感するのは「墓制」の違いである。日本海側に、「四隅突出型墳墓」と言われる特殊な形をした墳墓が多いのは、歴史に詳しい方々なら既にご存知だろうと思う。主に日本海側に限って、広島県、鳥取県、京都府、福井県、石川県、そして富山・新潟県にまで分布する、四角形に盛り土した墳墓の四隅だけが長く伸びて、突出している墳墓の事である。この形式の墳墓がなぜ日本海側だけに存在しているのかについてはまた別の議論があるが、問題はこの形式が丹後地方には全く見られない事である。紀元前後、墳丘斜面を石で飾った丹後特有の方形貼石墓が出現するのだ。他の日本海側と同じく、渡来系の人々が日本海側に多く住み着いたのは容易に想像できるが、この丹後地方に上陸した人々は、四隅突出型墳墓を築く習慣を持たない集団だったと考えられる。そして「鉄やガラス」の製造技術に長けた集団だったのではないだろうか。門外不出のこれらの技術で製造した鉄製品、ガラス製品を主な交易品として、広く日本海側や畿内地方にその覇を広げていったと考えられる。
一方で、丹後地方には、古事記・日本書紀や万葉集・丹後国風土記などの文献上の記事と符合した伝説・伝承が多く残っている事でも知られる。はっきりした文献上の記事としてみえるのは、「記紀」に、9代開化天皇の妃に「竹野比売」という名前がみえる事である。
古事記には、「此天皇旦波大県主名由碁理女竹野比売娶産御子比古由牟須美命」とあって、この竹野比売(たけのひめ)は、丹後町の神明山古墳のある地名「竹野」と関係があるものと思われる。「日本書紀」垂仁天皇5年の条に、崇神天皇が派遣した四道将軍「丹波道主命」(たにはのみちぬしのみこと)の5人の娘が垂仁天皇の后になるという記事がみえ、同15年の条にも同じ内容の記事がでている。ちなみに、前方後円墳である網野町の「網野銚子山古墳」、弥栄町の「黒部銚子山古墳」はいずれも、この丹波道主命の墓であるという伝承が残っている。
さらに同天皇87年の条には、丹波の国に甕襲(みかそ)という人物が居て、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を献上したとある。
他に丹後(波)が記紀に現れる記事としては、雄略期22年の条に「浦嶋子伝説」が見え、23年にも征新羅将軍吉備臣尾代(きびのおみおしろ)の記事があって、ここに丹波(後)という地名があらわれている。更に、世継ぎの無かった清寧天皇が、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子(いちべのおしいわのおうじ)の遺児、二人のオケ王(顕宗・仁賢)を探し出したとき、最初に二人が逃げて行った先が、丹波国の余社(よさ)郡である。これは丹後半島の入り口に位置する、今日の与謝郡であろうとされている。
これらの記事からは、この地方の豪族が大和朝廷の成立期において、大王家と姻戚関係を結べるほどに強大であった事が窺える。
大和朝廷がいつ頃成立したのかは勿論さだかではなく、従ってこれらの天皇の御代の記事がいったいいつ頃の事なのかははっきりしないが、和銅6年(713)には明らかに大和の勢力下に組み込まれている事を考えると、その考古学的知見、文献的記録からみて、おそらく5世紀から6世紀にかけてこの地方は、その繁栄の頂点にあったことがみてとれるのである。
さらに、丹後町間人(たいざ)には、第31代用明天皇の皇后穴穂部間人が、蘇我・物部の争いから逃れるため幼い聖徳太子を連れて間人の地へ上陸したと言う伝承が残っている。大江町には元伊勢内宮と外宮があり、伊勢神宮に天照大神が鎮座するまではここに祀られていたという。
また、浦嶋伝説・羽衣(天女)伝説等の伝承に基づく考察、さらには元伊勢神社と呼ばれる「籠神社」(このじんじゃ)に残る「海部家系図」なども非常に興味深い歴史的事実を秘めていると思われるが、今回の旅では訪れなかったので、ここで言及するのは止めておく。丹後半島を採訪する事があれば、これらの地も是非訪れてみたいと思っている。
繁栄を誇ったと考えられる「丹後王国」も、やがて大和を中心とした日本統一を目指す勢力がこの地方にも及んできた時、その勢力下に組み込まれる事になる。古墳時代後半、大和政権の勢力を背景に海上交通を掌握するほどの栄華を見せた丹後の勢力も和銅6年、丹波の国から北部5郡が分割され丹後国が発足して、国分寺や国府が置かれるようになると衰退の道をたどることになるのである。
(和銅6年(713)、丹波の国を分割して「始めて丹後の国を置く」という記述が「続日本紀」にある。)
丹後地方に強大な勢力をもつ古代「丹後王国」が、実際に存在していたかどうかについては立証されているわけではないが、少なくとも大和朝廷の勢力が及ぶ以前に、この地方に文化度の高い先進的な一団がいたことは間違いないし、地域独自の王権と支配体制を備えた国家が竹野川流域を中心にあった可能性は高いと言える。その王国は4世紀中頃から末頃に創設され、5世紀代に最盛期を迎え、6世紀終わり頃には大和の支配に入ったのだ。
■ 中世以降
中世になると京都から丹波・丹後へ向かう山陰道も整備され、街道沿いには「市」がつくられ、行き交う人々で賑わっていたものと思われる。地元で生産された絹織物も地方へ運ばれていった事だろう。有力寺社の荘園も多く分布し、また、足利氏と縁故が深い丹波の安国寺や、丹後地方の文殊信仰の中心であった智恩寺などの寺院を中心とする庶民信仰も広がった。14世紀から一色氏が守護として勢力を持っていたが、16世紀末細川氏が織田信長の命により丹後を平定し、城下町を開いた。
近世(江戸時代)になって、経済が発展するにともなって、街道や河川などの交通網が発達した。宮津藩や福知山藩の産物も、由良川を利用して京都、大坂へと運ばれていた。経済の中心は織物や農業で、特に丹後の絹織物は、18世紀に入ってからは、京都西陣から新しい技術を導入し、丹後を代表する特産品である「丹後ちりめん」が誕生した。江戸時代には、日本海を航行する船は宮津には必ず立ち寄ったと言われるほど、丹後半島の玄関口に当たる宮津界隈を中心に賑わった。丹後は、細川氏以後多くの藩主が入れ替わり、最終的に本荘氏が幕末まで続く。
現在、行政的には京都府に統合されてはいるが、京都と丹波・丹後地域は、人的には江戸時代と同じように隔絶したままである。地理的には明治22年、京都と丹波・丹後を結ぶ車道が竣工し、地域の経済や人々の暮らしを支える動脈となった。また現在では大阪方面から「舞鶴自動車道」を経由すれば、1時間半ほどで舞鶴まで着いてしまう。しかしこの高速道路を走っている車は僅かだ。近畿圏の高速道路で、常時ガラガラなのはおそらくこの丹後への道くらいのものだろう。丹後ちりめんの生産地としては名高いが、他にさしたる産業もない丹後半島が、「古代丹後王国」の隆盛を取り戻す日々は果たして再び訪れるのだろうか。
今、丹後半島の各行政では、半島の活性化のために様々な施策を模索している。なかでも力を入れているのが「歴史街道計画」である。
大江町・加悦町・野田川町・大宮町・峰山町からなる中丹後地区は、「丹後・丹波伝説の旅ルート」として、平成10年度、歴史街道モデル事業区に選定された。3つのゾーンを設定し、それぞれ観光ルートの整備、物産販売所の設置、文化財・旧跡の案内板・説明板の設置、ちりめん街道の歩道・町並整備とちりめんのPPR活動などに努めている。
・姫伝説ゾーン 小野小町伝説、羽衣伝説にまつわる施設の整備と2つの伝説を結ぶ観光ルートを整備。
・ちりめん街道ゾーン 伝説をめぐる観光ルートなどを整備。羽衣伝説。
・鬼伝説ゾーン 「鬼の博物館」鬼にまつわる観光資源と大江山の風景から、鬼伝説が息づくイメージを創造。
また、峰山町・大宮町・網野町・丹後町・弥栄町・久美浜町の各行政は、合併協議会を設立させて新しい丹後地区の行政のありかたを模索している。6町を合計した人口は平成13年3月31日現在、67,163名となっている。
ちなみに、丹後地域全体は2市11町(舞鶴市・宮津市、大江町・加悦町・岩滝町・伊根町・野田川町・峰山町・大宮町・網野町・丹後町・弥栄町・久美浜町)からなり、面積1、182平方キロ、人口約 22万3、000人となっている(1998年)。
1994年に丹後地域(2市11町)を訪れた観光客数は662万人(うち宿泊客142万人)だそうだ。5年前(1989)に比べると5年間で19.6%の増だそうで、京都府全体の伸び率と比較しても一人気を吐いているようである。基幹産業の繊維産業丹後ちりめん)が低迷し過疎化が進んでいく中、風光明媚な自然景観や海の幸を活かして、歴史・文化・伝説などを主体にした新しい「丹後王国」が出現する事を祈りたいものである。