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(回答先: (更新板) 「比治山の天女」伝説の地に水晶・緑色凝灰岩の玉:奈具岡遺跡【歴史倶楽部】弥生時代の玉作り工房 投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 7 月 04 日 13:31:50)
(初版は、引用元のURL変更により、画像の殆どが表示不能となったので、管理人さんに削除して頂きました。今回、変更後のURLを引用して、更新版をUPします。)
★ 我がルーツを辿る_(2)遺跡各論_(2-3)大風呂南遺跡群:弥生時代後期
太田南遺跡群は、日本海を眼下に見下ろす小高い丘に築造され、古代丹後の王墓とみられている。それは、一躍有名になったコバルト・ブルーに燦(きら)めく ガラスの釧(くしろ:腕輪)もさることながら、13点の銅製の腕輪や、鉄剣が「王」の墳墓にふさわしいと思われているからだ。この墓には、11本の鉄剣も収められ、同時代の墳墓に副葬されたものでは最多を誇る。丹後の王の勢力の基盤は、このような鉄製品にあったとみられるのだ。
しかし墳墓そのものは、尾根道の突端の薄暗い崖のようなところにへばりつくようにして築かれている。「こんな辺鄙なところになぁ、なんでやろ。」という話も出ていたが、誰かが、「古代はこの道(遺跡の脇に府道が走る。)もなくて、木々も生えてなかったとしたら、めちゃ見晴らしええで。」と言った。そうなのだ。今の情景は全て忘れて、古代がどういう地形であったのかを考えないと古代人の心はわからない。日本海を見下ろして、君臨した村々に睨みを利かせてここに葬られたとすれば、十分「王墓」の可能性がある。
きらめく青いガラスの腕輪は体の中央部から検出されている。どちらかの腕にはめていたもののようである。
従来、ガラス腕輪は丹後の大宮町1点と福岡県2点と、ともに破片が見つかっていたが、このように完全な形では初出土だ。
この墓に葬られた丹後の王の、頭の上方に13点の銅製の腕輪がかためておかれていた。
貝をかたどったこの種の銅製の腕輪は多く出土しているが、突出部の先端がとがっていないものは、この墓のものと、愛知県の三王山遺跡にだけ出土している。
ガラスの釧(くしろ:腕輪)で一躍有名になった大風呂南遺跡だが、実は「鉄」の遺跡としても非常に貴重な存在なのだ。
全国最多の11本の鉄剣が出土しているが、その内9本は柄が着いておらず、「はじめから鉄製品を作るための素材だった可能性もある。」と岩滝町教育委員会文化財調査員の白数(しらす)真也氏は語る。
そして岩滝町とは峠道で結ばれている大宮町の三坂神社・左坂両墳墓群(弥生後期)にも鉄刀が副葬されていたし、さらにそこから北へ10kmほど行った弥栄町の奈具岡遺跡(弥生中期)や、北西側の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡(弥生前期末)・途中(とちゅう)が丘遺跡(弥生時代前期末〜後期)等々の鉄材や鉄器加工の痕跡などを見ると、弥生時代を通じてこの丹後半島のほぼ中央地域一帯に、鉄器文化のネットワークができあがっていたと見ることができる。
扇谷遺跡から北西2.6kmのところにある赤坂今井墳丘墓(弥生後期末)は、最大の方形墳丘を持つ遺跡だったが、ここからもヤリガンナなど多量の鉄製品の出土を見ている。日本海沿岸から丹後半島の中心部に至る交通路の要衝に位置し、鉄の交易を背景に君臨した強大な首長の存在を窺わせる、長さ14m、幅9mという巨大な墓壙も確認されている。
■ 与謝郡岩滝町大風呂南墳墓の副葬鉄器と東方交流
ここで主流派となる竹野川・福田川流域の台状墓とは異なり、野田川下流域に立地した与謝郡岩滝町大風呂南墳墓群の鉄器に注目したい。
出土した鉄鏃のなかには、鏃身中央の鎬(しのぎ)や柳葉式にみられる独特の関の曲線的造形はないものの、定角式あるいは柳葉式と呼ばれる前期古墳副葬鉄鏃に類似するものがある。類品は北部九州から瀬戸内海に多いものである。
また、漁労具小型の組み合わせヤスは、前期古墳でもその出現期から採用される副葬品目に類似する。しかしその一方で、大風呂南1号墓第一主体部にみられた鉄剣には、前期古墳副葬鉄剣には継承されない形制のものがある。墓壙北西側(被葬者頭部側)、2組にまとまって出土した丸振りの鉄剣は、短い茎部に目釘孔一孔と角関をもち、刃関部分に双孔を穿つものである。丹後地域の特例としては、竹野郡弥栄町古天王5号墓出土鉄剣のみであり、後期後葉の時期、鉄剣副葬がよく見られる丹後地域でも少数派である。このような短茎刃関双孔の鉄剣は、近畿地方よりむしろ北部九州やその周辺、或いは東海・関東地方にみられるものである(第7図参照)。このほか丹後地域において、東方緒地域との交流を示唆する副葬鉄器として扁平な帯板を曲げて環状に造り出した鉄製小型円環がある。丹後・但馬地域では、京都府中郡峰山町金谷1号墓第3主体部・兵庫県豊岡市若宮4号墓第4主体部に見られる。この鉄製小型円環がどのような由来の物か考える上で参考となるのは、銅製の鉄製小型円環の研究である。
白居直之氏は、詳細な資料操作によって銅製小型円環が帯状円環形銅釧(第6図の1)の分割・再加工の結果であることを証明した。
白居氏は、帯状円環形銅釧の一カ所を切断し、穿孔して垂飾品(2,3)として使用されるものの他に、円環を断ち切り、熨した(4)後に裁断し、再び曲げ輪造りによって小形円環(5)に再生されるものや、さらに帯板状の銅片を条刻の後に縦方向の裁断(6)して、幅の減じた円環(7)に造り出されるものあることを例証している。この銅製小形円環の製作過程を敷衍してみれば、その断面が扁平となる金谷1号墓や若宮4号墓の鉄製小形円環(10,11)についても帯状螺旋形鉄釧(8)の切断、再加工によるものとする余地も見られる。帯状螺旋形鉄釧は中部高地に集中して分布している。鉄製小形円環はその南方に分布していることから、中部高地において製作された鉄釧が何らかの要因で切断、再加工され、その南方に供給されていたとも想定できる(第7図参照)。東海地方との交易によって近畿地方北部にもたらされたと推測することも可能ではなかろうか。
(丹後地域における弥生時代の鉄をめぐって 財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター調査員 野島永)