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(回答先: 国旗・国歌 本質をそらした朝日社説(産経新聞・主張) ― 論争の続き 投稿者 シジミ 日時 2004 年 4 月 04 日 09:09:33)
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
メディアが互いに批判し合うことは、言論の自由を基礎とする民主主義社会のためにも大事なことだ。だから、「本質をそらした朝日社説」と題する産経新聞の3日付の社説も謙虚な気持ちで読んだ。
しかし残念ながら、私たちの主張を読み違えた批判だと言わざるを得ない。
産経社説の内容はこうだ。
朝日は2日付の社説で、東京都教職員への処分に対して「卒業式で日の丸を掲げるな、君が代を歌うな、などと言っているのではない。処分という脅しをかけて強制するのは行き過ぎだと主張しているのだ」と書いた。しかし、99年に国旗・国歌法が成立したときに反対したではないか。「朝日はいつから、日の丸を掲げ、君が代を歌うことを認めるようになったのか。はっきりさせてほしい」
私たちは、日の丸や君が代が国民の間で定着しているという事実を認めたうえで、一貫して「日の丸や君が代を強制するな」と主張してきた。国旗・国歌法を論じたとき、社説に「結局、強制にならないか」「選択の自由を奪うまい」といった見出しをつけたのも、そういう意味からだ。
「いつから認めるようになったのか」と問われれば、「最初から掲げるなとも歌うなとも言っていない」とお答えするしかない。日の丸を掲げ、君が代を歌うことはもちろん認めるが、掲げない自由、歌わない自由も認めるべきだ、ということである。
「それなら、おまえは歌うのか、はっきりしろ」と迫るのなら、それは「踏み絵」の思想だ。処分をたてにした都教育委員会の指導は教員たちに「踏み絵」を強いたものと言えるだろう。
産経は、米国で国旗に対する「忠誠の誓い」を拒否する自由を認めた連邦最高裁の判決を朝日が引用したことについても「それは『子供を退学までさせるのは行き過ぎ』とした判決」であり、「教員処分の反対理由にならない」と書いた。
1943年にこの判決を下したジャクソン判事は、公権力が愛国心を強制することについて、歴史を振り返りつつ、「少数意見を強制的に排除する者は反対者を根絶している自分に気づく。強制的な意見の統一は墓場での全員一致をもたらすだけだ」と述べた。この判決の本質は、個人の自由の尊重であって、子供の処分だけを論じたものではない。
産経は「学校は子供に知識やマナーを身につけさせる公教育の場だ。それを怠る先生には処分を伴う強制力も必要である」とも書いている。
だが、学校が教えるのは知識やマナーだけではない。自ら学び、自ら考える力こそ大切であり、だからこそ中央教育審議会も自主的・自律的な学校づくりを求めているのだ。なのに都教委は式次第や国旗の位置、伴奏の方法まで12項目にもわたって細かく指示している。学校の自主性や個性を認めないやり方は、公教育にとってむしろマイナスだと考える。