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(回答先: 国旗国歌――大人がムキになる愚(朝日新聞・社説) 投稿者 シジミ 日時 2004 年 3 月 18 日 17:53:29)
3月8日(月)
3月5日の『朝日新聞』を見ていたら、オランダ軍の中にある労働組合の委員長が登場していました。オランダでは、軍隊の中にも労働組合があるんですね。
欧米諸国では、消防や警察にも労働組合があることは知っていましたが、軍隊の中にもあるなんて……。消防にも警察にも、まして軍隊にも労働組合がないばかりか、働いている人の1割台しか組合に組織されていない日本と、何という大きな違いでしょうか。
「日の丸」「君が代」のように、戦前の侵略戦争のシンボルだったものが、戦後も形を変えずそのまま使われているように、これもまた「日本の常識は世界の非常識」のひとつかもしれません。
これについても書きたいことは色々あります。でも、それはさしあたり我慢して、引き続き、「日の丸」「君が代」問題について書かせていただきます。
今日は、憲法や法律がどのように規定しているのかという観点から、問題を提起させていただくことにしましょう。
まず、教育基本法の一節から見ていただきます。教育基本法前文には次のように書かれています。
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
ここには、日本国憲法によって示された「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意」と「理想」は、「教育の力」によって実現されること、教育の目的は「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす」ものであること、それは「日本国憲法の精神に則」るものであることが示されています。
日本の教育は、この法律に反するものであってはなりません。憲法で示された平和・民主国家の実現に資するものでなければならないというのが、大原則です。
このような原則からすれば、侵略戦争の手段として用いられたシンボルを拒否するというのは、あまりにも当然の態度ではないでしょうか。そのような態度への非民主的で強権的な強制に従わないというのも、教育基本法と憲法の精神に基づくものであって、何等非難されるいわれはないということになるでしょう。
つまり、都の教育委員会の通達は、憲法と教育基本法に反しているということです。したがって、それに対する拒絶や不服従の方が正しいのであって、それを強制する方が間違っているということになります。
また、教育基本法の第1条(教育の目的)には、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とあります。
都の教育長はこの条文を読んだことがあるのでしょうか。教育の目的は、「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期」すという、この条文を……。
侵略戦争で血塗られた「日の丸」、戦前と同じ歌詞の「君が代」を押しつけることで、「平和的な国家及び社会の形成者」が育成できると考えているのでしょうか。「個人の価値をたつとび、……自主的精神に充ちた」国民が育つというのでしょうか。
さらに、第10条(教育行政)には、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。A教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」とあります。
そして、当時の文部大臣たちは、この趣旨について、次のように説明しています。
前田 従来の弊害であった極度の画一主義の打破であります。人を一様の型にはめる極度の画一主義は往々にして人の思考力推理力を奪い、その結果軍国主義発生の温床となり易いものであります。故に今後の教育新方針と致しましては、出来るだけ画一主義を改め一定の教育方針の範囲内に於いて、各教育機関及び教師は、それぞれ自発的に工夫創意を施す余地を持ち得る様にし、それぞれが特長を発揮しつつ国家の定めた窮極の教育方針に合致せしめるような伸々した空気を作りたいと思います(新教育方針中央講習会に於ける前田文部大臣訓示。1945年10月15日)。
田中 文部省なり地方の行政官庁なりが終戦まで執って居った態度は我々の考からいってはなはだ遠いものがあるのでありまして、文部省にしろあるいは地方の行政官庁にしろ教育界に対して外部から加えられるべき障壁を排除するという点に意味があるのであります。又一方には教育界の世話を焼き、保護する屋根のようなものである。教育の指針をかれこれと指導すべきではない。ただ教育理念に関します限りは、民主主義的な教育を実現し徹底させて行くという大きなことは大いに促進しなければならないでしょうが、その方針はやはり民主主義の方法でなければならない。官僚的な弊害に陥ってはならぬことは当然であります。要するに学校行政はどういう風にやって行かなければならないものであるかということ、あるいは学問の自由、教育の自主性を強調しなければならないということ、あるいは他にあるかもしれませんが、そういう建て前をもって教育の目的遂行に必要な色々な条件の整備確立を目的とするようにやって行かなければならぬというようなことを考えて居る次第でございます(教育刷新委員会総会第三回会議(1946年9月20日)における田中耕太郎文部大臣の答弁)。
どうです。当時の文部大臣は大変立派なことを仰っているではありませんか。
「人を一様の型にはめる極度の画一主義は往々にして人の思考力推理力を奪い、その結果軍国主義発生の温床となり易い」
「各教育機関及び教師は、それぞれ自発的に工夫創意を施す余地を持ち得る様にし、それぞれが特長を発揮しつつ国家の定めた窮極の教育方針に合致せしめるような伸々した空気を作りたい」
「文部省にしろあるいは地方の行政官庁にしろ教育界に対して外部から加えられるべき障壁を排除するという点に意味があ」り、それは「教育界の世話を焼き、保護する屋根のようなもの」
「民主主義的な教育を実現し徹底させて行くという大きなことは大いに促進しなければならないでしょうが、その方針はやはり民主主義の方法でなければなら」ず、「官僚的な弊害に陥ってはならぬことは当然」で、「学問の自由、教育の自主性を強調しなければならない」
これらがその出発点において、戦後民主教育に要請されていた内容です。通達によって「日の丸」「君が代」を強要し、それに従わないからといって処分する都教委のやり方は、この要請に真っ向から反しているというべきでしょう。
再度、強調しておきましょう。憲法と教育基本法に忠実なのは処分された先生方の方であり、都教委の通達もそのようなやり方も、憲法および教育基本法違反です。
最後に、「国旗・国歌法」を見てみましょう。この法律は、次のように極めて簡単な条文から成り立っています。
第一条【 国旗 】
第一項 国旗は、日章旗とする。
第二項 日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。
第二条【 国歌 】
第一項 国歌は、君が代とする。
第二項 君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。
これだけです。どこにも、強要したり押しつけたりする文言はありません。この法律が制定されたときの官房長官だった野中広務さんが、『老兵は死なず』という著書のなかで、「この法律の意味としては、これまで法的な根拠がなかったことに、根拠を持たすことによって、『「君が代」は国の歌ですよ、「日の丸」は国の旗ですよ』ということがわかってもらえれば、それでよいのである。だから罰則の規定などはない」と書かれているとおりです。
また、法案審議にあたって、内閣法制局長官が、「国旗国歌法自体の効果として、国民が国旗掲揚の義務や国歌斉唱の義務を課されることは一切ない」と答弁していたことも付け加えておきましょう。
そもそも、当時の小渕首相自身、この法案が審議されていた1999年8月の審議において、「義務づけを行うことは考えておらず、国民生活になんら影響や変化が生ずることにならない」と答弁していました。また、「児童生徒の内心までたちいって強制しようとする趣旨のものではない」とも、述べています。
野中さんの場合には、もっとはっきりと、「法律では義務規定、罰則規定は盛り込まれていないが、実際の教育の現場で、さまざまな形で実質上の罰則、義務に近い運用がなされることのないようにお願いをしたい」(前掲書)と書かれています。
都教委が行っていることは、教員の生活に大きな「影響や変化」を生み出すものであり、「実質上の罰則、義務に近い運用がなされ」ていることになります。法の制定にあたった故小渕首相や野中元官房長官の答弁や言明に真っ向から反することは、誰が見ても明らかでしょう。
日本国憲法第19条は、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定めています。この憲法の規定にてらしても、上に見た教育基本法や国旗・国歌法からいっても、首相や官房長官の言明からしても、つまり、どのような角度から見ても、都教委のやり方に正当性はありません。
それは憲法違反であり、法律違反の暴挙です。それをどのように跳ね返したら良いのでしょうか。
明日は、それについての、私なりの提案を書かせていただこうと思います。
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月10日(水)
一日、間が空いてしまいましたが、「日の丸」「君が代」問題についての続きを書かせていただきます。どのようにして、その強要を跳ね返すのかという点についての提案です。
まず、このような異議申し立てや抵抗を個人のレベルで行うのは慎重であって欲しいと思います。「個人のレベル」というのは、個人に対して抵抗する、あるいは個人が抵抗するという二つのことを意味しています。いずれについても、慎重であるべきだというのが私の意見です。
個人に対して抵抗するというのは、たとえば、「日の丸」「君が代」を強要する教頭や校長、監視するために学校にやってきた指導主事などに対して、個人的に非難・糾弾し、排斥するというやり方です。私は、このようなやり方には賛成できません。
このような、いやな仕事を任される教頭さんや校長先生などに、私はどちらかと言えば同情的です。これらの人も、内心では「嫌だ、困ったことだ」と考えているかもしれず、その意味では同じ被害者である可能性もあるからです。
このような人に対しては、非難や糾弾ではなく、道理を尽くした説得が必要です。なぜ、反対なのか、なぜ、強要してならないのか、同じ教育の場に身を置くものであれば、必ず分かり合えるはずです。
しかも、「そうするべきではない」と考えている人にとっては、押しつけられるよりも、押しつける方が辛いでしょう。良心的な方であればあるほど、板挟みになって悩むことも多いにちがいありません。
すでに、広島の世羅高校の校長先生がこの問題で悩みぬき、自殺するということがありました。国旗・国家法制定の契機になった事件です。
法の制定は、このような悲劇を避けたいと考えてなされたもののようですが、結果的には解決になるどころか、問題を深刻化させています。板挟みになる教頭や校長先生の悩みを解決しないばかりか、かえって強めているのではないでしょうか。
いずれにせよ、かつての世羅高校の校長先生のような悲劇を繰り返してはなりません。犠牲者を出さないような運動のあり方を考えるべきです。
また、1人1人が「踏み絵」を踏まされているとき、それに対する抵抗、どう対応すべきかという決断を個人任せにするというのも考えものです。それはあまりに荷が重すぎるのではないでしょうか。
もちろん、進んでこのような重荷を背負う方もおられるでしょう。今日の『朝日新聞』に出ていた「都教委の強制には従わないとする『不起立宣言』を発表した」先生は、このような方だと思います。
この先生は、次のように述べています。
ふだんから『自分の意見を言おう』『人権を守ろう』と言い聞かせている自分が屈したら、子どもたちに顔向けできなくなる。
……教育の自由と子供たちや私の権利の回復を求め、不服従、(日の丸・君が代実施時の)不規律を宣言します。ささやかな良心の抵抗です。
……私にも生活があり、正直言って恐い部分もある。しかし、都教委の強制はあまりに反教育的で、教員の良心にかけて従うことはできない。
仰るとおりです。全ての先生がこのように考え、行動するのが望ましいと思います。
しかし、実際には、それはかなり困難でしょう。現状では、こうするためには大きな勇気と少なからぬ犠牲を必要とします。
それは誰でもできるような行動だとは思われません。少なくとも、それを運動の側から要請することには慎重でなければならないでしょう。
したがって、この問題への対応も個人任せにせず、集団的に解決しなければなりません。そこで、教職員組合の出番です。
まず、運動主体の側の団結を示すことが必要でしょう。日教組と全教は、この問題での限定的な共闘に向けての話し合いを始めるべきではないでしょうか。一緒に運動する姿勢を示してもらいたいと思います。
次に必要なのは世論の喚起です。『世界』4月号がこの問題で特集を組んでいます。
このような形での世論化を積極的に図っていくべきです。この私のHPでの「一人キャンペーン」もそのような試みのひとつですが、所詮は一人での「ミニコミ」にすぎません。もっと広く、マスコミに訴えていく必要があるでしょう。
世論に訴えるという点では、国際的な働きかけが有効ではないでしょうか。「日本の常識は世界の非常識」ですから、日本から一歩外に出れば、この問題のおかしさは直ちに理解してもらえるでしょう。
教職員組合としては、韓国や中国など周辺諸国の教職員団体に訴えることが重要です。また、国際自由労連や世界労連にも働きかける必要があります。ILO、国連などの場に問題を持ち出すことも検討課題のひとつでしょう。
思想・信条、良心の自由という観点からすれば、この問題は人権問題です。したがって、通達違反で処分された方々は人権擁護委員会に救済申請を行う道が考えられます。
議会や首長、議員への働きかけも重要です。憲法や教育基本法、国旗・国歌法の制定趣旨からいって、強制が適切かどうか、協力してもらえる議員を通じて答弁を求めるべきでしょう。
教職員組合が主体になって裁判に訴えるという道もあります。すでに都教委によって処分された先生達は裁判闘争に立ち上がりましたが、これも色々なやり方があるでしょう。
都の通達については、その効力停止の仮処分申請を東京地裁に出すというのはどうでしょうか。処分された先生方は、大きな精神的苦痛を味あわされたことと思います。これに対する損害賠償を、都知事や都の教育長に請求する民事訴訟を提起することも検討課題でしょう。
ただし、このような裁判闘争のやり方について、私は専門家ではありませんので、顧問弁護士などとよく相談された方が良いと思います。
要は、処分されたら訴えるという受け身の姿勢ではなく、このような通達による強制と処分自体の違憲性、違法性を問うという攻勢的な姿勢が必要なのではないかということです。
このような多角的・重層的な戦線の構築が必要です。できるだけ、単調で一本調子にならないよう、多彩で多様な運動を展開していただきたいものです。
自由と民主主義は、戦うことなしに守ることはできません。それを押しつぶし、破壊しようとするものとの闘争を通じて、自由は発展し、民主主義は活力を得てきました。
今回もまた、日本の自由と民主主義のために、そうあって欲しいと思います。その姿を子どもたちに見せることこそ、最良の「教育実践」となるのではないでしょうか。
http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm
柿沼昌芳+永野恒雄●編著
版元●批評社
A5判 248ページ 並製
定価2,000円+税
ISBN4-8265-0390-3 C1037
●2004年02月
紹介
「新しい歴史教科書を作る会」が主唱する「愛国心」の内実は、小林よしのり氏の漫画に見られるように矛盾だらけの捻れた「反米・愛国ナショナリズム」に過ぎない。日本人が普通に持つ家族愛や郷土愛、地域愛といったものが、いつの間にか「国家」への「愛」に変質され、「忠誠」へとすり替えられる。このまやかしは今に始まったことではなく、戦前・戦中の学校教育の変質と同根であり、戦後民主教育もまたその捻れを突き破ることができなかった。国旗・国歌法の制定から『心のノート』へ、そして今、新自由主義の風潮が高まる中で特別支援教育の名の下に子どもたちの選別が始まろうとしている。現場教師による『愛国心』研究の緊急レポート。
目次
●まえがき
□第1部 〈対談〉なぜ今、「愛国心」なのか
斎藤貴男+永野恒雄+柿沼昌芳(司会)
若者とナショナリズム/イラク派兵の「大義」/新自由主義と国家主義はセットである/「国」を愛するとはどういうことか/ナショナリズムと排外主義/文化ナショナリズムと政治ナショナリズム/敗戦とネジレ/日本という国の悲しさ/東京都の教員管理/今、教師に何ができるか/高校紛争と校内暴力/教育に対するマッカーシズム/自衛隊・徴兵制・マスコミ
●序 章 イラク戦争と愛国心
自衛隊はアメリカの属兵か/湾岸戦争とイラク戦争/「愛国心」をめぐる今日的状況/「愛国心」をめぐるネジレ/自由主義史観の生い立ち/戦中の日本とフセイン政権/フセインをめぐる藤岡・板倉論争/踏絵を踏む教師、踏ませる教師
□第2部 学校の中の愛国心
● 第1章 最近の「日の丸・君が代」の状況〜東京都の「新実施指針」をめぐる状況
一二月二三日の教育委員会の事/「日の丸・君が代」対策本部の設置と天皇制ファシズムの復権/一○月二三日に出された都教委の「新実施指針」の異常さ/戒厳令下の周年行事校/人権侵害の都教委指導―不起立・退場者など違反者が続々/「予防訴訟」に立ち上がろう!
● 第2章 一教員の体験から〜学校・教育行政・保護者住民と愛国心
一九七四年から一九八三年、足立区/一九八三年から一九九三年/市民の動き/一九九三年から二○○二年 中野区/一九九九年国旗国歌法〜教員への処分スピードアップ
● 第3章 『心のノート』に見る「愛国心」
「愛国心」を学ぶ「心の教科書」/『心のノート』の構成から―〈帰属意識〉の同心円的な拡大/『心のノート』中学校版における「愛国心」を分析する/「愛国心」と「自国の文化だけ、自国の特徴だけの強調」/『心のノート』による「愛国心」教育の実際/『心のノート』作成協力者会議の河合隼雄座長と「愛国心」・ナショナリズム
● 第4章 高校生の愛国心・その断面
授業の中で/高校生の愛国心/「愛国心」をめぐる教育の動向と高校生/愛国心教育と高校生
● 第5章 沖縄と「日の丸・君が代」
沖縄(県民)のこだわり/沖縄における「日の丸・君が代」問題/これからの「日の丸・君が代」問題
● 第6章 エスニック・マイノリティの子どもたちとナショナリズム〜多文化教育の可能性
エスニック・マイノリティの子どもたち/エスニック・マイノリティの子どもたちにとってのナショナリズム/多文化教育の可能性
□第3部 愛国心とは何か
● 第7章 若者のナショナル・アイデンティティと歴史認識
二つの疑問を軸に据えて/教育基本法の空洞化をめぐって/植民地支配民族の「名誉ある地位」/東北アジアの共存・共生のために
● 第8章 反米愛国と親米愛国
戦後、封印されていた〈反米愛国〉/湾岸戦争という経験/反米愛国か親米愛国か
● 第9章 愛国心とナルシシズム
私のナルシシズム/岡潔と三島由紀夫/愛国心と愛校心/万能感とナルシシズム/ナルシシズムを超えた愛国心
●第10章 敗北のなかの愛国心
愛国心について/愛国心とは何か/日本兵捕虜は何をしゃべったか/日本兵捕虜における敗北の構造/なぜ進んで情報を提供したのか/敗北の中の愛国心/おわりに―敗北空間としての戦後日本
●第11章 市民生活の中の愛国心
ああ、日の丸・君が代/「愛国」の来た道/一九三○年代の生活/「国ヲ愛スル心ガ人ヲ殺ス」/今、再び/どうして戦争に協力してしまったのか/「貢献」とは何なのだ/「無形の財産」/この国の一員として
● 第12章 共同体主義と愛国心
社会を歪めた戦後教育/共同体主義の政治哲学/共同体主義とナショナリズム/国家共同体と戦争
□第4部「愛国心」の教育史
●第13章 学徒勤労動員と愛国心教育〜中学時代の体験から
我らのにがい中学校生活/授業を抛って勤労動員へ/生徒を動員に駆り立てた思想と政策/今思う、これからの青少年は
●第14章 沖縄の一女性の学校生活誌〜戦時体制下の教育を中心に
一少女の「少国民」形成の過程/貧しい生活と長女・初子/小学校入学と全校朝会/御真影と教育勅語について語る/合同訓練・行軍と勤労奉仕について語る/心に残る兵隊さんのお話―寛平君と柿/平良家に忍び寄る戦時体制/初子にとっての沖縄戦
●終章 学校教育が“育む”愛国心
●あとがき
前書きなど
国連の意向を無視してイラクへの侵攻を行なったアメリカ軍が、深刻な苦境に立たされている。そのアメリカ軍を支援するため、日本政府は、国内の世論を無視し、人命が失われる危険を冒して、「自衛隊」をイラクに派遣しようとしている。こうした政策に対し、自衛隊員の中からさえ、批判的な意見が現れているという。
こうした動きと並行して、いま、教育基本法の「改正」、さらには日本国憲法の「改正」が進行している。世界最強国アメリカのイラク侵略を支持し、それに加担することで日本は、戦争を放棄した平和国家から、「戦争ができる国」、「海外派兵できる国」に転換しようとしている。
北朝鮮との折衝にあたっている外交官を目標にした政治テロが起き、石原慎太郎・東京都知事がそれを「あたりまえだ」とする発言をおこなうという事件があった。その後も石原知事は、中国・韓国の人々の神経を逆なでする、誤謬に満ちた発言を繰り返している。しかし、こうした石原発言に対するマスコミや世論の反発は、なぜか今ひとつ徹底さを欠いている。
日本に滞在している中国人の凶悪犯罪が大きく報じられる一方、中国では、日本人の軽率な行動に端を発した激しい反日デモが起きている。
「バブル崩壊」・「マネー敗戦」が明らかになった一九九○年代の後半以降、日本では、「愛国心」・「ナショナリズム」に関わる議論が活発化してきた。そこには、経済不況とそれに伴う国内の閉塞感・危機感を、「愛国心」や「ナショナリズム」によって乗りきろうとする政財界の意向が反映し、あるいは、「ナショナリズム」や「排外主義」に依拠する以外に、何らの展望も見出せなくなっている多くの国民の意識が反映していると言えるだろう。
そうした中でここのところ、日本をとりまく国際的な状況に、冒頭のような新しい動向が生じている(もちろんそうした「動向」には、石原氏をはじめとするポピュリストによる、意図的な「煽動」も含まれている)。こうした動向は、「愛国心」や「ナショナリズム」をめぐる議論にいっそうの混迷をもたらす一方、従来そうした問題にあまり関心を抱いてこなかった人々、あえてそうした問題を避けてきた人々の意見表明を引き出す結果を生むかもしれない。
「国」とは、そもそも何なのか。「国を愛する」とはどういうことなのか。「愛すべき国」とはどういう「国」のことを言うのか。
日本社会特有な言い方として、「うちの会社」、「うちの学校」という言葉をよく使われる。この「うち」という言葉は、所属している集団が上位にあって、成員がその集団に隷属し、自立していない実態を反映している。そこにおいて成員は、常に集団を意識し、集団の動向に左右される。集団を相対的、客観的にみられなくなり、「個」の確立ができない。そのような中にいると、他の集団に対し友好的に対応することができず、敵対的に対応せざるをえない。このような日本的風土の中で、「日本人」であることが強調されると、それは、日本という国だけに目を向ける結果となり、グローバルな動向を見誤ることになりかねない。
おりしも学校教育の世界では、「国を愛する心」が強調され、「君が代」・「日の丸」を強要する動きが進行している。昨年(二○○三年)一○月二三日、東京都教育委員会は、都立学校の全校長を招集し、儀式的行事に際して、全教員の国旗敬礼、国歌斉唱を強制する内容の通達を手渡した。いずれこの動きは、全国に波及してゆく可能性がある。
しかし、こうした中で、なぜか「教師」の姿が見えてこない。福岡市の「通知表」における「愛国心」評価問題が表面化したのは、教職員団体や教師の「内部告発」があったからではなく、保護者・市民団体による指摘から、マスコミ報道、弁護士会の「勧告」へという形で顕在化していった。教師たちは沈黙していたというより、むしろ沈黙させられていたようである。問題が顕在化したあと、県教委は「愛国心」通知表を、「補助金」を絡ませながら導入したが、この段階にいたっても、教師たちは抵抗していない。あるいは抵抗できなくなっていた。
「日の丸」・「君が代」の強制は、その導入が目的というより、むしろそれによって教師を沈黙させ、無力化させることが目的であったといえる。教育行政は、教師を沈黙させることによって、「日の丸」・「君が代」をはじめとする「愛国」教育を、さらに貫徹してゆこうとしているのであろう。
東京都教育委員会は、「思想良心の自由」について、先生方がどのように考えるかは自由、しかし、起立しないなどの「行動」として表現すれば「職務命令違反」になると主張している。宗教上の理由で剣道実技を拒否して退学になった生徒の裁判で、大阪高裁は「それが内心の信仰にとどまる限りは、これを制約することは許されないが、信仰が外部に対し積極的又は消極的な形で表される場合に、それによって他の権利や利益を害するときは、常にその自由が保障されるというものではない。」(一九九四年一二月二二日)と判示している。都教委の「内心の自由」についての詭弁は、このような判例を援用しているのである。
しかし宗教というものは、「内」(個人の内面)と「外」(布教活動)に分けられるものではない。国家は、宗教の「内」の部分だけは正当なものとして保障し、したがって内心の「可否」を問うことはできないが、「外形」は法律によって制限できるとしたのは、明治時代の政策であるという(阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書)。
内心の自由は、それを表現することで成立するものである。今、教育の中で進行している事態は、子どもの「内心」に立ち入って、子どもが内心から「愛国心」を持つように迫るものと言える(本シリーズ『心のノート研究』参照)。
そのような状況の中で強調される「愛国心」は、「君が代」・「日の丸」のように「身体」を通して強制するものであれ、『心のノート』のように、「こころ」を通してコントロールするものであれ、当然批判の対象としていかなくてはならない。ただ本書では、それらを単に批判するだけではなく、いま学校の中に踏み込もうとしている「愛国心」の実体を冷静に分析する一方、私たちの「教師としての意識」(「愛国心」を含め)についても問い直しを行なおうとした。
そもそも私たち教師は、日々の授業や生活指導の中で、学校・教師あるいはその教育内容に何らの疑問を抱かず、批判もしない子どもを育てようとしては来なかっただろうか。また一方で、弱肉強食の世界、序列主義の社会を肯定し、それを前提として能力主義的・競争主義的に子どもたちを駆りたてては来なかっただろうか。こうした教師の「意識」(無意識)は、今後「国を愛する教育」や子どもに対する「日の丸」・「君が代」の強制へと、いとも簡単に転換する危険性がある。
以上のような問題意識にたった上で本書は、「愛国心」をめぐる教育の現状分析、「愛国心」の本質論、「愛国心」の教育史という三本の柱を立てた。いずれの柱においても、教育現場の視点を忘れないよう留意した。
微力ではあるが、戦前における「愛国心」教育の実態をふり返りながら、「愛国心」をめぐる教育の現状を「国際的」・「平和的」な視点にたって分析し、有効な問題提起と提言をめざしたいと考えている。
http://hihyosya.co.jp/NewBooks/NBT0402c.htm