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(回答先: Re: この際明確に言いたいこと 投稿者 戦争屋は嫌いだ 日時 2004 年 5 月 29 日 04:39:25)
「NGOと自己責任」について★南堂久史さんのHP「ニュースと感想」より一部抜粋。
http://www.creative.co.jp/top/main2122.html
詳しくは、以下のサイトで全文をご覧いただきたいと思います。↓
http://www005.upp.so-net.ne.jp/greentree/koizumi/98q_news.htm#jikose3
(この文は、高遠さんたち人質バッシングをした新聞記事に対して書かれたものですから、
これを今回の場合は、「イラクに出向いたのだ?」のところは「戦争反対について何か
行動か発言をしているか?」というような意味に置き換えて、また「熟慮に基づいた行動」
のところを「ゆっくり本を読む」あるいは「情報の海に浸って、人々にその情報の意味を
反戦のために広めていくこともせず、ただ横からながめて、なるようになると、
達観している人たち」というふうに置き換えて読むのがよいと思う。)
(略) 何も行動しないで日本にふんぞりかえっている人間には、そんなことを言う資格は
ない。よくもまあ、恥ずかしげもなく、そんなことを言えるものだ。自分は平和な地で
ぬくぬくと寝転がっていながら、「熟慮に基づいた行動」なんてぬかしている。
馬鹿じゃないの? 「熟慮に基づいた行動」ではなくて、「熟慮に基づいた無行動」でしょ?
あんたたちは、いったいいつ、「熟慮に基づいた行動」をしたのだ? いったいいつ、
イラクに出向いたのだ? 頭が錯乱しているとしか思えない。
それとも、何ですか。自宅でテレビを見ながら酒を飲んで論じていることが、
「熟慮に基づいた行動」なんですか? 冗談も休み休み言ってほしい。
ついでにいえば、自衛隊もまた、サマワで穴蔵に閉じこもっているだけで、
ちっとも外に出ないわけだから、「熟慮に基づいた無行動」である。
これで平和が訪れる、と信じているところに、論者の妄想がある。
根源的に考えよう。自分では何も行動しない人間は、他人の行動を非難する資格はないのだ。
たとえ同意できないとしても、できることはせいぜい「沈黙すること」だけであって、
非難してはならないのだ。それは人間としての最低限の節度だ…
(もうひとつ。)
リベラルであるということ――政治的曖昧言語の名誉回復のために
萩原能久 慶應義塾大學法學部教授(政治哲學・政治理論)より一部抜粋。
http://www.law.keio.ac.jp/~hagiwara/shigaku3.html
5 「リベラル」の最低条件
(略)リベラルであることのまず第一の条件にあげられるのが、反権威主義であろう。
このことは反体制的、反政府的ということと同義語と理解されてはならない。リベラ
ルは権力や権威の存在を否定しないし、その必要性も認識している。ただその「不当
な」行使に対してそれと闘おうとするだけである。だからこそ、いかにそれがリベラ
ルの態度と共通性を持つ部分が多くとも、「自由主義」や「民主主義」が「不当な」
要求を自己正当化しようとする時、リベラルはそれらをも敵にまわすのである。リベ
ラルの警戒が主として国家に向けられるのは、国家権力があらゆるもののうちの最強
の権力であるからにすぎない。「自由とは抵抗する勇気である」と述べたのはラスキ
であったが、それこそが消極的自由とも積極的自由とも区別されるリベラルの追求す
る自由なのである。
リベラルの第二の特徴として、理性による社会の改革が可能であるし、人類と社会
の進歩がそれによって図られると信じるオプティミズムが挙げられよう。「自分一人
がやってもしかたがない」であるとか、「どうせ政治の腐敗はなくならない」という
諦観からニヒリズムに陥り、政治参加を放棄して、なすがままにまかせるというのは
リベラルの対極の姿勢である。人間と、その可能性を信じるというリベラルのオプ
ティミズムは、もちろんひとつの信仰にすぎない。しかしそれは、その逆の信仰より
も建設的なことだけは確かである。
最後にリベラルの最も重要な特徴として「寛容」の精神を挙げておかなければなら
ない。リベラルという形容詞の名詞形である「リベラリティー」(哲学においては、
通常、「寛大」と訳される)という言葉は、アリストテレス以来の哲学史の中で一貫
して重要な徳のひとつとして考えられてきた。それが重要であるのは、例えばベンサ
ムのような功利主義者が考えたように、画一性を力によっておしつけるよりも、許容
したほうが社会の混乱を招かないための「得策」だからではない。寛容が重要なのは
それが「正しい」からである。リベラルは自分自身の生き方の選択に自信と責任を持
ちたいと願っている。だからこそ他人の、自分とは異なった生き方に接しても、それ
を尊重しなければならないと考えるのである。ただ一つ、不寛容に対しては、リベラ
ルはそれを寛容の精神で容認したりはしない。それを容認することは自由そのものの
絶滅につながるからである。
以上の条件を踏まえて「リベラル」という立場をあえて日本語に翻訳するとするな
らば、「公正さの感覚に立脚した反骨精神」とでも言うことになろう。
(私の追記)何か具体的に、戦争反対のために情報を探してきて「阿修羅」に提供することでもよいし、
その情報を誰かに知らせることでもよいし、発言を続けることでもよいし、
街頭署名やデモや集会に出るのもよいし、とにかく今の世の中を「奴隷の平和」の状態から
目覚めさせることをしないと、内では高度管理・統制・監視社会がやってきていて、
そこは戦争で裏打ちされた経済繁栄だから、その構造に異議を唱える者や、
効率・能率に役に立たない者は弾圧され存在を認められない社会になり、
外で戦争で力づくで人殺しをしていることとの関係を、ひとつながりのものとして
感じ取られない、人間性を喪失した社会になってしまう。
大枠で戦争反対なら、互いにつぶしあいをするのではなく、それぞれの性格に見合ったやり方で、
いろいろな方法で社会や政府や権力に働きかけ、それで社会や政府や権力を動かすことに
つながるような建設的な「雑談」にならないものでしょうか?
本を読んで身につけたら、読んでいない人にそのエッセンスをわかりやすく
語ることができなければ、弾圧的に読ませても、意味はない。
頭のいい、情報も経験も豊富な人なら、それを普通の人に少しでもわかるように、
時に叫び、時にささやきながら、広めて、今のこの時代が、60年安保や70年安保の時代など
比較にならないほど、この59年間でもっとも危険極まりない最悪の恐るべき時代だということを伝え、
実際に変えていく何かを、それぞれの人にみあった方法で、すぐに行なう必要があるということをしてほしい。
気が付いていない人には目覚めてほしいし、気が付いていても何もほとんどしない人には何かしてほしいし、
何かしている人にはもっとやってもらわないと、ほんとにとんでもない時代になっていて、
さらにひどくなるばかりだから、つぶしあいは、やめてほしい。
批判や反論はもちろん重要だが、あくまでも戦争構造に反対する立場に役に立つ方向でしてほしい。
戦争肯定する立場からなら、そのときこそ、みんなで叡智を振り絞り、持てる情報と知識と情熱と心で、
徹底的に叩いてつぶしてほしい。
そういう方向に知識や情報や本を読むことなども使ってほしいと思います。
どうせこんな支離滅裂な文章は叩かれつぶされるのでしょう。
今まで、そういうことはイヤで避けておりました。そういう弱い性格です。
ただのひきこもりです。頭も良くありません。知識も経験もありません。
叩いてつぶすのは簡単です。でも、こんなにひどい世の中で、
ドシロウトの未熟者で叩かれたらすぐに落ち込んでひきこもっていた自分でも、
自分が馬鹿にされながらも、生きていられるから、今のうちに言わねばならない。
イラクの人は殺されている。日本の中でも弱い者はどんどん生きていられなくされている。
そういうことを思うと、私は叩かれつぶされ馬鹿にされても言うことは言ってみようと思う。
私は落ち込んだとき、長壁さんの文を読むと一番発奮できる。
発奮といっても人殺しの方向ではなく、それをとめて、弱い者、劣った者も堂々と
人間として生きていける世の中を作ろうという方向に発奮できる。
長壁がんばれ!もっともっと叫べ!