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(回答先: 人間性というものについてどう理解すべきか。[あっしらさんへのレスです] 投稿者 乃依 日時 2004 年 5 月 18 日 18:47:44)
乃依さん、どうもです。
「人間が、自然を逸脱できるなどと考えているからおかしくなる」というのは、今という現実(歴史)に「人間は自然を逸脱できる」という思わせる条件があることを含意しています。
ですから、「人間という存在は、確実に自然界全般から、遊離しているというのが実感です。からだのあり方というよりも、人間の精神的実存の問題です」という乃依さんのお考えは妥当なものだと思います。
人が創り出したことやものが周囲に溢れそれらが自分を規制するようになれば、「人間は自然を逸脱できる」と考えたとしても、それほどの逸脱だとは言えません。
端的には、人が創り出したものである「お金でなんでも手に入る」と観念している人は、「人間は自然を逸脱できる」と考えていると言えます。
>人間性というものは、やはり不可解な物なのです。
私にとって「私」さえもが不可解な存在ですから、人間性となればより不可解であるはずです。
それらについて様々な解釈や説明は可能ですが、生身の人が「私」や人間性を理解しようとする限り、超えられない壁があると思っています。
「心理学」「精神分析学」「大脳生理学」などは、例えば、学級崩壊を防げたとかある人の悩みを払拭できたという“実利”でのみその妥当性を主張できるだけで、人間性をそのものを解き明かしたと言い募ることができるわけではありません。
(“実利”性だけで存在意義はあると思っていますが、問題をより根源的に解消できる方法にいかずに、現状のなかでお金儲けや名誉欲を満たしているところが笑いの対象になります)
>・人間性を「脳細胞(からだ)」という物質が生み出していると断定できる証拠もない。
>唯物論的研究者は、人間性を「脳細胞(からだ)」という物質が生み出していると断
>定し、その信念によって、人間をはじめとした、
>生物の精神的実存のありかを、物理学的次元に収束させるべく、追い求めようともが
>いています。
肉体という物質は人の枠組や基礎ではあっても、人間性そのものでもなければ、人間性を生み出すものでもありません。
それは、「脳細胞」に限らず肉体のどこを探ってみたとしても、人間性なるものが発見できないことでわかります。
人間性は“無”であり、“無”も「実在」だという観念(了解)が要請されます。
どうあがいても見ることができない“無”が、確かな「実在」性として、他者関係や対自然的活動の在り様を強く規定しているのです。
(肉体を失った人間性(=“無”)がどうなるかは現在の私にとって不明です。それが可能ならば、死んでから確認してみたいと思っています)