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私は長い間、思っていた。宗教は色々あるけど基本的には正しい思考において発生している。
曰く「全てを有りの侭に受け入れなさい」曰く「汝の敵を愛せよ」曰く「人間は苦しみから解放されなければならない」曰く「あなたは神の子である」・・・
宗教を構成する人は基本的には善人である。どちらかと言えばストイックで自己に厳しく、人に優しく、真理を求め、悪を嫌う人達である。少なくとも私は私よりは真面目で素晴らしい人達が多いと思っている。
宗教に限らず、思想集団なども基本的には同じである。
政治家は知恵を持つ者が多い。政党などは、有名大学を優秀な成績で卒業されたと言う私などから見た時、「レベルの違う宇宙人のような人」で構成されていると言う気がする。地元の応援から判断しておそらく人格者だろうとも思う、しかも、実際に実務を行っているのは数百倍の競争に勝ち残って来たエリート集団の官僚である。
つまり、宗教にしても、思想集団にしても、政治家にしても、元となる思想は善を目指し、構成員は基本的に善人で、求めているものはより多くの人が平和に暮らせる社会なのだろうと思う訳である。
それなのに、世界は不幸で溢れかえっている。何故か?この世界に溢れる不幸は原因不明の難病と言えるだろう。今まで世界のあらゆる賢者が治療に命を賭けたにもかかわらず、治癒に向かう事はなく、むしろ進行・悪化している感すらする。しかも、その元にはその賢者達の施した治療こそ原因と考えられるものも少なくない。
これは、コンピュータープログラムのエンバグに似ている。バグ(プログラムの設計ミスによって起こる不具合)に対処して改良すると、また新しい不具合が起こるのと同じように見える。プログラムの場合のバグは使用者の予定外の使用方法から指摘される。そこで、それを見込んだ上のパッチ(継ぎ当て)処理を行う、しかし、継ぎ当ては継ぎ当てなのでどこかに不具合が残る。最終的にはあまりの常識外使用は保証外として諦められて切り捨てる事になるか、全く新しく設計される事になる。
神話の世界に目を向けた時、人類の不幸はアダムが禁断の実を食した時から始まる事になる。私はこれは昔、この世にある不幸を解消しようと思った賢者が考えた物語だと思う、言わばたとえ話のおとぎ話である。
意味は次のように解釈する。<人間は無垢であった。それ故に平和だった。自分たちの世界(決められた範囲の空間)で、不満なく暮らしていた。その頃は今で言う猿と同じようなものだったかもしれない。しかし、ある日アダムを呼ばれるものが「好奇心」を持った。それは「決められた事を守らないとどうなるか?」とのものだった。それが「知恵」の芽生えであった。>
アダムは蛇に唆されたと言われている。それは蛇では無く、自分の中に芽生えた「感情」だったのかもしれない。
禁断の果実を食べる。禁じられていた「他人が作った作物を盗む」という事だったかもしれない。
楽園を追われたのは、もしかしたら、自らの好奇心の為故郷を捨てたのかもしれないし、集団の掟を破った罰であったかもしれない・・・
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人間の社会制度は
体制主義制(社会体制を一番重視する事に重点を置き、その中で社会の一員としての、個性と生命などを守る制度)
専制君主制(力(腕力)のある者による支配によって、規律と社会の維持される制度社会。言い換えれば腕力主義制)
資本主義制(力が否定され知恵のある者が知恵によって立身する事を重点に置いた社会、法により体制を維持する社会。言い換えれば、知恵主義制)
宗教(思想)主義制(信仰や思想などによって、戒律な規律を維持し、社会の体制を維持する社会。言い換えれば心情主義制)
と大まかに分類して4つの制度が考えられる。要は集団か、力か、智か、心かである。勿論実際にはこの4つのバランスを取りながら体制を作る事になる。
そのバランスの取る方法によって、個人崇拝か、民主主義に分かれるのだと思う。
専制君主制はその性質から個人崇拝なりやすいが、それは宗教主義制でも同じである。
おそらくは、最初は集団こそが一つの生命とされ、集団のそれぞれの役割の中で長老などが(長老の判断で)公平に富みの分配を行っていた。獲物を狩るというのを例に取って考察すると、追い込む者、サポートするもの、調理する者、指揮するもの等で適材適所が決まり、全ての労働は等価として共生社会が成り立っていた。
そこに「俺が仕留めたのだから、俺が他の者と同じ配分ではおかしい」と主張する者が出てくる。活躍した者は活躍の少ない者と労働が対価ではないとの不満である。
その結果、肉体的に優れた者に主導権が移っていき、やがて、専制君主制が生まれる事になる。「働かざる者食うべからず」である。
しかし、肉体労働と知能労働は対価との考えや、暴力による支配の打破との思想などから不満が起こり、やがて、知恵によって専制君主制は次第に倒されていく、一部に形式や象徴として社会体制を混乱させないための方便としての専制君主の残骸は残されている場合もあるが・・・
知能支配は通貨制度などを作り、個人の生活そのものは裕福になったかに見えた。しかし、肉体派からは「汗を流さない労働者」への疑問が生まれ、不満が生まれた。一般市民からは「知恵のある者へ集中する富み」への不満が起こった。それは「道」と言う思想を作り出し、武力による革命を発生させた。しかし、それはある意味では「専制君主制」への振り戻しにしか過ぎなかった。
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人間というものは不思議な生き物である。
人に指示される事を望むのである。思考停止をさせボンヤリしているのが好きなのである。その証拠は「アルコール飲料」、「たばこ」などにも表れている。基本的に判断するのが嫌いなのである。「できれば、面倒な思考は他の誰かがやってくれ!」という意識を少なからず持っている。一部の例外を除き自分から進んで判断しようとする人は少ない。
ただし「単なる怠け者」というのとも少し違う、得意分野では自ら進んで良く働く者も多いのである。ただ、自分の脳を使うのは自分のためか仕事の為だけと考えている節がある。
しかし、公平や自由が壊れるのも困るとも思っているのである。指示されてそれをするのは仕事であり、それはこなすのだが、命令と強制には拒否反応を起こすのも人間の不思議である。
そこで、他人に依存(付託)する事になる。自分より優れた者に導いてほしいのである。しかし、世の中にはそんなに優れた者などは存在しない。存在するのは「狡猾な知恵者」と「瞬間的にやる気を持った不満分子」だけである。
これは言い過ぎなのだろう。多分「狡猾な知恵者」も最初は善意である。しかし、途中で「考える事すらしない者」の為に思考する事を無駄な事に思えてくるのだろう。そこで自分のためにその思考能力を生かす事を考え出すのかもしれない。
「瞬間的にやる気を持った不満分子」は元々は考えるのが嫌いな一般市民である。不公平感の解消などは無理と諦め、自分がぬるま湯気分になれればそれで良しである。他人の為には脳細胞の一個でも使いたくないというのが本音である。そもそも、自分も導かれたい方の人間なのである。適当な付託者が表れないので仕方が無く働いただけなのである。
そんな人間の作る社会であるから、これは平和も平等も来る訳がない気もする。
結局、訳の分からない指導者に導いてもらおうとして、思想団体や宗教に入ってしまい結果的に対立構造の中に組み込まれていくのである。気が付いた時には自分の手で誰かを殺す事になっていたりするのである。
今、世界は難病に掛かっている、それを治療するには病因の解明とこれまでの経緯の分析を行い対処療法を考える事こそ重要である。
全ての「思想」と「宗教観」と「知恵」こそが悪である。あなたの目はそれらが善とか正義とかの思い込みがある。「公平を叫ぶ」のが最も悪である。
仕事をした時ヘラクレスのような肉体を持つ者と、女子のような者の二者がいた時、同じ量の仕事をするのが公平であろうか?
仮に、同じ量の仕事をしたとして、二者の食事は同じ分量というのが公平であろうか?
どこにも公平などはないし、真理やオカルトも否定されるべきだろう。あるのは自然の絶対法則と過去の事実だけである。そこを認識し、そこを新たな踏み台にして対処法を考えなければ世界は、予言を実現しようとする者達に流される事になる。予言などは当たらないものだ、しかし、人間の心理には予言を受け入れようとする想いがある。
ハルマゲドンは人間の求めるものだ、それに気づけなければ当たるのである。それは遠い過去からの呪いであり。無意識への誘導である。呪いはまじないによって解かねばならないのである。