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(回答先: あっ知らさん、先日の原罪論についてもう一つおしえてください。 投稿者 はてな? 日時 2004 年 4 月 29 日 23:09:41)
はてな?さん、どうもです。
私流の解釈は、「「原罪論」はパウロやキリスト教神学者の錯誤の産物」( http://www.asyura2.com/0401/idletalk8/msg/1067.html )を参照していただくとして...
>ユダヤ教、イスラム教ではアダムは罪を犯したと認識されてるのですか?
ユダヤ教タルムード派は聖書に関する自由闊達な解釈論議を認めるので、「アダムは罪を犯した」という説もあるかもと思っています。(このような精神的土壌が、ユダヤ人は頭がいいと言われる所以だと思っています)
しかし、ユダヤ人は自分たちを神に祝福された選民だと考えており、神の意に従って生きれば隆盛し、神の意に逆らって生きれば没落すると思っているはずですから、「原罪論」的な解釈は多数派のものではないはずです。
イスラムも、神の意に逆らって生きてきたとしても死の間際に悔い改め神に帰依すれば罪は消えるという考えですから、「原罪論」的な解釈はないはずです。
ユダヤ教―イスラムの脈絡でアダムの楽園追放を解釈すると、人が苦労しながら労働しなければ生きていけなくなった「受苦原因論」になるのではと思っています。
キリスト教神学の不可解な点は、イエス・キリストは人類の原罪を贖うために磔刑に身を委ねたはずなのに、今なお「原罪論」を説明していることです。
再生したとしてもイエス・キリストの磔刑で人類の原罪は購われたのですから、その時点で「アダム原罪論」は意味性を喪失したはずです。
イエス・キリストの磔刑以降も「原罪論」を持ち出してあれこれ言うのなら、エデンの園におけるアダムの振る舞いではない他の「何か」を持ち出すしかありません。
念のため、イエス・キリストの磔刑を提督ピラトに願った人たちはアダムと違って人の起源(始祖)ではなくその子孫のごく一部でしかないのですから、それをもって「人類の原罪」と言うことはできません。
イエス・キリストをしても人類の原罪は1回の磔刑では贖い切れないというのなら、イエス・キリストは救世主には程遠い存在ということになりますし、キリストが再臨しても地上に神の王国を築くことはできないように思われます。