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(回答先: Re: ついでに質問です。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 5 月 01 日 20:35:30)
あっしらさん、ご多忙の中、レスありがとうございます。
理にかなわぬ「罪悪感」と、そうではない「罪悪感」の峻別が必要であることを同意いたします。それらを見極めるために、私もまず理をしっかりと身に付けなければ、と思っています。
今、この「理」について考えを廻らしていると、ある思いが出てきました。辞書には物事の道筋、法則、ことわり。などと書いてあります。「理」って、知識や経験の多い人が優先的に身に
つけていくものだろうか。単純にそう思えません。時々、ある人たち(私など比べものにならないほどの知識と経験の持ち主で、どちらも甲乙つけがたい人)の議論のやりとりで、この私にどちらに理があるか判断できない場合もありますが、理が明らかな(ように思う)場合もあります。
これって自分の単なる思い込みだろうか、と考えたりもします。しかしそうでもない気がします。理ってなにやら不思議な気がします。知識の中から簡単に取り出せそうで取り出せない。
知識はあるが、理はあまりない、などと人や書物に対して感じたりもします。不遜な言い方をすると、知識や経験とは理を身に付ける単なる材料にしか過ぎない、と思ったりします。
知識の少ない者の負け惜しみかもしれませんが、少ない知識と経験で理を身に付けれればそっちでいいかな、と思います。そして、私にとって理を身に付ける(というより、理を体感する)こととは快楽(幸福)に浸りこんでゆくことのような気がするのです。
もちろん知識の多い方が理の萌芽の可能性が大きいでしょう。
もしよろしければ、お暇な時にでもご感想を。「理」のあっしらさん。