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Jポップから「J改革」へ - 小泉社会保障改革のイデオロギー [世界]
http://www.asyura2.com/0403/hasan35/msg/153.html
投稿者 なるほど 日時 2004 年 5 月 07 日 15:04:43:dfhdU2/i2Qkk2
 

(回答先: 命綱の『年金』、こんな人たちに任せられない [JANJAN] 投稿者 なるほど 日時 2004 年 5 月 05 日 15:30:34)

件  名 : [資料] Jポップから「J改革」へ - 小泉社会保障改革のイデオロギーより抜粋



■ Jポップから「J改革」へ - 小泉社会保障改革の「イデオロギー」とは
http://www.freeml.com/message/truce@freeml.com/0016634
渋谷望


1】 「J」の感性としての「構造改革」

「構造改革」は漠然としている. そもそも定義が難しい. 英語では structural reform(s) というそうである. 試しに検索サイトの google でこの語を検索すると, 真っ先に目につくのが日本政府のホームページであるが, 定義らしい定義はしていない. 斎藤貴男も指摘するように, 「構造改革という用語には実は明確な定義がない. …… 小泉首相自身 "聖域なき構造改革" "構造改革なくして景気回復なし" などといったスローガンは叫んでも, 何をどうしてこうすることを指すのだと具体的に語ったことは一度もない」(『小泉改革と監視社会』岩波ブックレット, 2002年, 38頁)

たとえば 1999年, 小渕内閣時代の「経済戦略会議」答申を見てみよう. 少しさかのぼるが, 竹中平蔵が中心となって策定しており, その中心語彙と基本的な認識の本質は現在でも変わっていない. そこでは「構造改革」の説明を次のように試みている.

これまでの日本社会にみられた「頑張っても頑張らなくても結果はそれほど変わらない」護送船団方式的な状況が続くならば, いわゆる「モラルハザード」(生活保障があるために怠惰になったり, 資源を浪費する行動) が社会全体に蔓延し, 経済かつ慮銃の停滞が続くことは避けられない. 現在の日本経済の低迷の原因の一つはモラルハザードにあると理解すべきである […… 「経済戦略会議」答申からの引用 中略 ……] 経済戦略会議はこうした観点から, アングロ・アメリカン・モデルでもヨーロピアン・モデルでもない, 日本独自の「第三の道」ともいうべき活力のある新しい日本社会の構築を目指すべきであると考える.

この文章では日本の長期的な停滞の現状分析を試み「護送船団方式」による「モラルハザード」が過渡の平等を生み出し「懸命に努力した」人を疎外するシステムであったという. そして「自己責任」による競争原理の導入をうたう. と同時に「セーフティ・ネット」の重要性を指摘する. こうして, アメリカでもなくヨーロッパでもない「日本独自の "第三の道"」を, というわけである. とはいえ, それはブレア流の「第三の道」でもなさそうである.

そもそも「構造改革」がわかりにくい理由は「日本独自」を標榜する点にある. この説明によるとその独自性は「競争」と「セーフティ・ネット」の組み合わせにあるらしい. しかしこの両者は程度の差こそあれどんな社会システムにも備わっているといえないだろうか. とすれば何をもって「日本の独自性」を主張するのだろうか.

おそらく予想される答えとして高福祉と低福祉の中間であるとか具体的な個々の制度の違いとかをあげることはできる. しかしそれはひとつの独自な「モデル」を構成するような差異つまり「アングロ・アメリカン・モデル」や「ヨーロピアン・モデル」のような「モデル」を構成する弁別特性とはいえない. そもそもここで「アングロ・アメリカン・モデル」や「ヨーロピアン・モデル」とは何をさしているのか.

曖昧さにもかかわらず, 何らかのジャンルの独自性を強く自己主張する感性は, 別のあるものを連想させる. 90年代に, ポピュラー音楽の領域で「Jポップ」と名づけられた商品パッケージのジャンルである. 酒井隆史にならい, こうしたものを消費する感性を「J的なもの」と呼んでおこう (酒井隆史「マーケット,モラル,ポリス … ピリオド」『情況』2000年6月).

Jリーグ,J-Wave,J文学,Jビーフ, ……. まさに何でもありなのだが, これらに共通するのは, 「J」を冠することによって何か独自なもの新しいものを主張すること, あるいは主張した気になることである. だが, その独自性は空疎なままだ. あるいはアカウンタビリティを伴わない「独自性」というべきだろうか. Jポップにおいて顕著なように独自性を標榜しているにもかかわらず, 何をもって「J」独自なのか定義不能なのである. 最終的には日本人が歌っているとか日本のマーケットを意識的にターゲットにしている, ということぐらいのネガティブな規定でしかない.

「J」的な感性は「ナショナリズム」とも違い「世界」に開かれている. それは, 世界のサブカルチャー,ファッション,「思想」を貪欲に取り入れる. たとえば Jポップは世界のさまざまなジャンルの音楽の「ミクスチャー」といわれている. そこには一貫性はない以上, 矛盾が存在しない. 酒井が指摘するように「世界」に開かれた「外部のなさ」 - 節操のなさ - を「J」的感性ということもできる. 「J」は認識の地平であり, 葛藤や矛盾を「ミクスチャー」として解釈する枠組みであるといえよう.

ひるがえって「日本独自の」「構造改革」の説明に戻ってみよう. この枠組みによって, 荒々しい「新自由主義」は「構造改革」に, 「競争原理」は「健全な競争」に, 「規制緩和」は「規制改革」に, つまり「J」的なものに節操なくいつの間にかすり替えられてしまう. だがいったい「 (不健全な) 競争」と「健全な競争」の違いは何だろうか ? あるいは「規制緩和」と「規制改革」の違いは ? こうして自ずとわいてくるような疑問に答えることなく, この説明はトートロジーに陥る. 「J」が「J」であるように「構造改革」は「構造改革」である. したがって「Jポップ」ならぬ「J改革」が「構造改革」の正しい名前ではないか. このように考えれば, 小泉と YOSHIKI の親和性も妙に納得がいく. とはいえ, Jポップはアーチストの側というよりもむしろマーケティング戦略による構築である. とすれば「J改革」も同様にマーケティングによる構築といえるかもしれない.

だが, なぜこのマーケティングは成功し人々に支持されたのだろうか. この問題を検討するためにまず, 本来「モデル」とは何をさすべきなのか, 比較福祉国家論の試みから考えてみたい.


2】 No Choice! - 比較福祉国家論の試み

近年, 福祉社会学や社会保障論の領域では比較福祉国家論が注目されている. とくに エスピン - アンデルセンの『福祉社会主義の三つの世界』 (ミネルヴァ書房, 2001年) がエポックメイキングである. 彼の議論で重要なのは単に. 高福祉vs低福祉のような単線的な記述ではなく, 福祉国家レジームを析出しそれがそれぞれに内在的なロジックの多様性の表現であることを確認した点にある. したがって福祉国家への漸進的収斂を前提とする, かつての近代主義的な福祉国家論の楽観的な見解への挑戦ともなっている.

彼が着目する内在的ロジックは脱商品化の程度, つまり労働者や市民が市場に依存しないで生活できる程度である. 詳述はしないが具体的には, 老齢年金, 疾病給付, 失業給付などを得点化したものである. この得点は社会権をどこまで保障しているかを表すものと考えることができ, その意味で福祉国家の質を表していると考えることができる.

彼は, これによって北欧に顕著な「社会民主主義型」, ヨーロッパ大陸に顕著な「保守主義型」, そしてアングロサクソン的な「自由主義型」, この三つの理念型的な類型を構成した. 社会保障費の支出という点からみれば, それぞれ高福祉, 中福祉, 低福祉となろうが, 脱商品化の仕方という点でみれば, それぞれ, 職域横断的な普遍主義原理, 家族主義 = 職域分断型原理, 市場主義 = 残余的原理に基づいており, 質的に異なったロジックないし「目的」を有している.

ところでこの三つの類型のいずれかに, 日本を厳密に位置づけることは困難である. 日本は一応, 保守主義型に分類されているが, 同時に福祉制度が残余的 (= 限定的) であるという特異性が示唆されている (前掲書. 日本語版への序文). この問題は論争的であるが, 彼自身は「発展途上」段階ゆえの未分化だと指摘する. しかもこの未発達は, むしろ残余主義を克服するためには「幸い」であるかもしれないという. というのはポスト工業化に家族主義, 企業主義はうまく対応しきれないからである. もちろんそれは「さまざまな負の効果を伴うアメリカ型の対応を見本が見習わないなら, である」(前掲書).

この著作が発表されたのは 1990年であり, データ自体は 80年代前半までのものである. それゆえ, 80年代後半以降の動きは分析に現れていない. エスピン - アンデルセンの議論を踏まえ, その後の福祉国家のいっそうの多様化を指摘する富永健一らの比較研究は興味深い (富永健一「福祉国家の分解と日本の国際的位置」, 平岡公一「社会保障給付の趨勢分析」『海外社会保障研究』2003年春号).

[…… 中略 ……]

比較福祉国家研究から得られる知見で重要だと思われるのはそれが世界の福祉国家レジームをサーベイすることによって, 制度的, 思想的な選択肢が実に多様であることを示唆しているということである. 言い換えるなら福祉国家への「収斂の終焉」は「福祉国家の終焉」を意味しない (富永健一「福祉国家の分解と日本の国際的位置」『海外社会保障研究』2003年春号). このことは, 福祉国家の終焉を自明視する政策言説と鋭く対立する. というのは, こうした言説が前提とし, また示唆するのは,「選択肢なし」の単線的で宿命論的な歴史認識だからである.

このような背景に照らして公的年金改革をはじめとする一連の社会保障「構造改革」を見るなら, 「健全な財政」という恫喝めいた至上命令に対してひたすら後ろ向きに応答していると言う印象しか受けない. 今回の年金改革ではたしかに厚労省 = 公明党主導に対して, 財界が労使折半の負担増を嫌い「抵抗勢力」となった. しかし, 結果としての妥協案を全体としてみれば, 給付抑制の方向に落ち着いており, 外からみれば出来レースの印象を否めない.

これらの「改革」の結果, 低福祉への道がなし崩し的に追認されていく. この方向性には少なくとも何らかのポジティブなロジックによって構成される「日本独自」のモデルと呼べるほどのものはどこにも見出せない. それは消去法の結果にすぎず, 未来を語る理念としてはあまりに没価値的で平板である. 国家官僚による支配が一元的であるとするなら, ネオリベ経済学者による支配も負けず劣らず「一元的」で浅薄である.

にもかかわらず, 何かポジティブなものを有しているフリをするとき, あるいはそれを求めているフリをするとき, 「構造改革」という言葉が効果を発揮する. この言葉は空疎にもかかわらず, 何か積極的な独自性を有しているといったそぶりを可能にする. こうした感性はまさに「J」的な感性ではなかろうか. さまざまなジャンルの「ミクスチャー」である Jポップのオーディエンスは, 生の海外の音楽には関心は無いといわれているが, もしそうだとしたら「J改革」も同じ感性を共有している. 海外の福祉国家の動向に関して都合のよい部分だけを「ミクスチャー」し, それをもって「独自性」と僭称するからだ.

3】 No Plan ? - イデオロギーの回帰

「構造改革」には, 積極的に人々の心を掴むような独自性は見られない -- 「財政の持続可能性[サステナビリティ]」をこよなく愛せるような変人や, 目的と手段を取り違えた倒錯者なら話は別かもしれないが. だが奇妙なことに, 日本において, このような語によって説明される「構造改革」はなぜかウケがいい. その理由は何か ?

ここで, イデオロギーが成立するためには, 必ずしもそれが積極的に信じられる必要はないということを想起する必要がある. スロヴェニア出身の哲学者スラヴォイ・ジジェクが指摘するように, かつて社会主義国の人びとは, 党幹部も含め社会主義イデオロギーを信じてはいなかった. (『イデオロギーの崇高な対象』太田出版, など). 「民主化」後の党幹部の資本家への変わり身の早さがそれを証明している. だがイデオロギーの成立は, 当のイデオロギーを自分自身で積極的に信ずることなく, イデオロギーを信じているであろう誰かを信じることに依拠している. いわば「信仰」を他者に委ねるわけである. そして, イデオロギーの「信仰」を委託された他者も, また別の誰かを当てにすることができる. こうして結局誰一人, 積極的にイデオロギーを信じることなく, イデオロギーは成立する. 旧社会主義国において -- 少なくともその末期においては -- 「社会主義」イデオロギーはこのように成立していた.

同様の空疎さは「構造改革」に関してもいえる. 「構造改革」を積極的に説明する者が誰もいないまま, ババ抜きのように他者にその説明が託され, 「改革」はいわば丸投げされる. しかし, 結局, 説明不可能なままである. おそらく首相自身も信じていまい -- 旧社会主義国の幹部と同じように. もちろんこの態度は, 自衛隊イラク派兵の「大義」の説明不可能性ともワンセットである.

しかし, なぜ, ありうべき多くのイデオロギーのなかでも, とりわけ「構造改革」が幅広く「支持」されるのだろうか ? おそらく, この点が, たんなる Jポップの浸透とは異なり, 新自由主義固有のロジックであるといえるかもしれない. この「改革」言説を支える思想が存在するとすれば, それは「モラルハザード」論であろう. すでに見てきたようにモラルハザードとは,「生活保障があるために怠惰になったり, 資源を浪費したりする行動」を指している. つまり, セーフティ・ネットに「甘え」「依存する」主体を想定し彼らの行動こそが諸悪の根源とみなす思考である.

だが, すでにみてきたように, 社会保障制度は成熟するどころか, ますます頼りなくなっている. にもかかわらず, 社会保障制度へのモラルハザードの可能性に言及することによって, なし崩し的に「改革」は進行する. それゆえこのロジックは, 何も持っていないのに他者に「盗まれた」と主張することで, 自己の所有を主張する者の態度に似ている.

重要なのは「改革」イデオロギーに異を唱えるものはすべて何かよからぬたくらみをもつ「抵抗勢力」としてカテゴライズされてしまうことである. 旧社会主義国の反体制派がすべて「革命の敵」とみなされたように. これが「支持」の内実である.

それゆえ, 「構造改革」を支えているのは, 「モデル」と呼ぶにはあまりにもネガティブな思想ではないだろうか. 思想というよりは反知性的で貧弱な思考パターンにすぎない. その主張は, 人は社会保障制度が成熟すれば甘えるはずだ, というものである. 端的にいえば, 人を信じるべきではないということなのだ.

こうした不信の文化は「自己責任」の文化ですらない. 他者への際限なき疑念に基づいて設計された制度のもとでは, 自分を信じることすらできない. そこで生き残るのは卑小な者たちだけである.

Don't Believe the Hype!

しぶや・のぞむ 1966年生まれ. 社会学. 1995年早稲田大学大学院文学研究科満期退学. 現在, 千葉大学文学部助教授. 著書に『魂の労働 - ネオリベラリズムの権力論』(青土社).

【出典】『世界』No.724 2004/3月号 (岩波書店 \743+税) pp.147-152

特集 公正・公平な年金とは ?

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