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(回答先: 【書評】「中国経済 超えられない八つの難題」 程暁農編著 [産経新聞] 投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 01 日 16:12:19)
一、改革における政府の役割
ここ数年、国内外における様々な場において、「現行体制には効率性が乏しいと知りつつも、中国政府はなぜ有効な措置を採り、改革を進めないのか?」という疑問をよく耳にする。議論するテーマが異なったとしても、経済体制改革のプロセスに関する話題になると、このような問題は必ず聞かれる。
このような問題には二つの側面がある。一つ目は、政府が十分な知識・情報・経験を持っているかどうかである。二つ目は、政府が改革するという意志を持っているかどうかという問題である。言い換えれば、実際に措置をとるかどうかという問題である。現実にある利害の対立をすべての人が充分にかつ正確に見極めることは不可能である。現実状況に対する異なる理解と異なる解釈によって、改革案を含む数多くの異なる意見が生じたのであろう。問題は完全な情報が存在する場合でも、なぜ政府が有効な措置を採り改革を進めないか、ということになる。
このような問題の背後には次の仮説が隠されている。すなわち、改革するかどうか、あるいは、どのような改革措置、改革案、改革政策を採るかは、政府(あるいは政策決定者)によって決められることであるという考え方である。この場合、改革措置の正確さと有効性は政策決定者の認識の正確さによると思われる。改革の必要性が理解できれば、改革することができるはずであろう。さらに、政策決定者は自らの認識に基づき、可能な措置・政策を採って問題を解決することになる。そのため、誤った政策は誤った認識に基づいており、その多くが官僚主義(問題を知っても行動をとらないことは一種の官僚主義的行為とみなされる)によるものだと思われている。
事実、これまでも、多くの人々は(中国人、多くの外国の専門家を含む)、改革に関する問題が政府の施策の問題であるように考えている。または、政府が賢明かどうか、正しい改革戦略や改革施策を持っているかどうかの問題として捉えている。彼らは、政府のできないことはないと考えている。つまり、政府は、一方では問題に対する正確な認識を持っており、他方ではいかなる適切な政策を採って問題を解決することができるように思われている。もし政府が適切な政策を採っていなければ、職務上の過失か官僚主義によって失敗が起こっているかのように思われる。そのため、いわゆる体制改革の成功は、政府が賢明であるかどうか、そして改革戦略が正鵠を射ているかどうかにかかっている。
しかし、実際の問題の所在は我々が政府それ自体と政府による施策をどのように理解するかということにかかっている。たとえ政府(政策決定者)が問題に対する正確な認識を持っていると仮定しても、政府自身が様々な要素に制約されているため、どんな政策も採れるという自由がない場合がある。一国の経済において、政府は一つの公共的な機関にすぎない。政府の施策は一定の社会的条件の下での公共選択の結果を反映しているのにすぎない。どんな独裁的な政府でも、実際に、国民の反応を全く考慮せず、勝手に政策を遂行することはできない。政府がどのような形式であるかに関わらず、国民による政策に対する反対は政府に対して、様々な影響を生み出す。同時に、国民自身が各種の異なる利益集団から構成されているため、それらの間の利益衝突も政策に対する異なる意見と反応を生み出すことになる。政府はそれぞれの利益集団の間に立って均衡が取れるように斡旋を行う手段にすぎない。いったん、政府が形成され機能し始めたら、政府自身も一つの特殊な利益集団、つまり官僚集団を形成する。この集団の特殊な利益も政策の形成に対して影響を与える。
政府政策と改革戦略に関する問題は、実はかなり複雑である。事実上、国全体の経済と社会の観点から政府の問題を考えると、最も根本的な問題は決して政府自身にあるわけではない。それは一定の社会的・経済的条件の下で、各利益集団における利益衝突および力の平衡ということが問題になる。政府による施策は各利益集団を均衡させるための産物にすぎない。いわゆる賢明な政府とは、比較的に完全な情報と豊富な知識を持っている政府であろう。言い換えれば、(1)当面の問題はどこかが根本的な原因であるかを知っている、(2)発展傾向を把握しており、問題の根本的な解決方法を知っている、(3)当面の状況のもとで、どのように適切な方法で正しい方向(速度自体はゆっくりでもかまわないにしても、正しい方向であることが大事である)に向かって社会を推し進めることを知っている、というような政府である。このような政府は比較的良い政府だと思われるが、長期的あるいは社会進歩の傾向から見ると、政府自体の役割は限られている。また、社会には政府の行為を制約する勢力が形成されたり、政府の誤りを是正する要求も絶えることはない。
短期的かつ具体的な問題に関しては、政策決定者が実際に重要な役割を果たす。しかし、長期的にみると、政府の施策に不満を持ったり、政府の施策の過程を理解しようとすること自体は問題の解決につながらない。重要なことは、社会における各利益集団の経済的利益と各利益集団間の相互作用を理解することと、体制改革の過程と政府の改革政策に対して各利益集団がどのように影響を及ぼしているかを理解することである。
二、"最適化戦略"より"公共選択"
このように、改革を公共選択という社会過程としてとらえるべきである。しかし、近代経済学におけるミクロ経済学と厚生経済学の影響を受け、体制改革の問題を考える時、経済学者はしばしば政策設定者と同様の思考を持ちがちである。すなわち、社会的厚生関数のもとで、社会的厚生の最大化という原則に従い、最適となる改革案もしくは改革戦略を選択する。中国の経済学者は、計画経済体制のもとで政府が決定権を握ることに慣れている一方、中国の知識人固有の「経世済民」の考えと方法論の影響も受けている。そのため、彼らは改革の問題を社会の全体にとって最もいい方法をいかに選択するかという問題として捉えがちである。
経済学者は最適化理論を用いて、現実の状況をある程度説明できるかもしれない。しかし、現実をもっと理解しやすい理論は公共選択の理論であろう。すなわち、体制改革方式の決定は、社会における異なる利益集団の間に発生した利害対立の過程において、一つの均衡状態として生じる結果であるとみなすべきである。体制改革は社会的厚生を最大化するためのものではなく、各利益集団の利害対立の度合いによって決定されるものである。
以前、筆者は体制改革の過程を分析する際に、二つの異なる理論を用いた。一つは、新古典派経済学に基づく社会的厚生の最大化理論である。たとえば、拙著『両種改革成本与両種改革方式』において、筆者は一つの共通のモデルによって異なる改革方式に対するコストと収益の分析を行うことができると仮定し、そして収益を最大化するという基準に基づき、自分にとってベストとなる改革方式を確定することを試みた。一方、改革のコストの一部は、利益集団の間における利害の対立が引き起こした摩擦的なコストであることを理解できれば、異なる改革方式を理論モデルで比較することが便利な場合がある。それによって、各種の選択肢の背後にある特殊な社会的・経済的条件もよく理解できよう。しかし、このような方法は最適化の理論から離れてはおらず、政策設定者の立場に立っているように思われる。また、現実における各種の対立を説明するにも限界がある。二つ目としては、公共選択の理論を用いた。利益集団の間における利害の対立と相互制約の視点から改革の過程を分析した。たとえば、拙著『論改革過程』と『論改革方式的選択』においてこのような方法を用いた。特に、『論改革方式的選択』において、筆者は「投票のパラドックス」を用いて、様々な改革方式の理論モデルを構築した。それぞれの改革方式において、利害の対立がどのように起こっているか、そして、その利害が衝突している状況から改革が如何に実現できたかを分析した。上述した二種類の理論を比べると、筆者は公共選択の理論がより現実的な意義を持つと思っている。それは、改革の過程における多くの現象を分析し説明するために便利であり、もっとも上手く現実を抽象化している。
中国の学者の中でも、一部の人が最適化の理論を用いて改革の過程を分析している。代表的なものは、林毅夫氏の『中国奇跡』(邦訳『中国の経済発展』日本評論社)であろう。その本において、林氏が体制改革の原因を政府による「発展戦略」の変更に求めた。要するに、過去において、発展戦略が間違っているため体制設定も正しくなかったということである。したがって現在は"最適な発展"を図り、政府が発展戦略を変え、最適であると政府の発展戦略によって見なされた方式に基づいて体制改革を進めている。このような理論分析における因果関係にも現実的な要素が含まれていないわけではない。たとえば、旧ソ連式の計画体制の形成は当時の途上国の経済発展と密接な関係を有していた。しかし、中国と旧ソ連・東欧諸国における改革(一種の重大な社会衝突の過程)を政府の「発展戦略」の変更に求めることは、歴史の発展と互いに一致しているとは考えにくい。また、このような理論を用いて体制改革の過程の本質をまとめることや、実際の改革の過程とこの過程における複雑な社会的対立を分析することは難しい。
公共選択の理論を用いて改革の過程を直接に分析する一つの特徴は、われわれが改革の収益とコストを言う時に、社会の全体という角度から社会的な利益とコストを議論するのでなく、一部の利益集団という角度から、一人あるいは一つの利益集団にとっての収益とコストを議論することにある。同じ政策または同じ改革であったとしても、異なる個人や集団であれば収益とコストは異なる。ある集団にとって利益であることが、別の集団にとっては悪い結果をもたらすかもしれない。ある人にとって収益であるが、別の人にとってはコストになるかもしれない。ここでは、ある問題において社会的に共通した利益(公共選択の理論において、同じ事柄が各集団にとって良い影響と悪い影響をもっている可能性のあることが示されている)が存在することは否定していないが、改革における普通の情況―「非パレート改善型変更」の問題―を分析する。「パレート改善型変更」の分析においては、改革は順調に行われ、どんな論争も利害の対立も存在しない。この場合、理論上さらには実践上においてもあまり分析する必要はない。たとえ現実の生活においてこのような情況が存在したとしても、われわれは特に言及しなくて良い。
われわれは公共選択のアプローチに従い、人々の利益の対立によって生じる改革プロセスの相違と改革プロセスの選択方式を説明しなければならない。ここでの基本的な論理は、異なる利益集団は自ら固有の利益によって、異なる改革目標と改革戦略を有しているということである。彼らは公共選択の過程で互いに衝突し、互いに制約し合い、最終的に改革の選択はこのような社会的衝突と公共選択の結果によって実現する。いわゆる政府の政策は、この公共選択の結果の具体的な形式にすぎない。
(出所)樊綱著『漸進改革的政治経済学分析』(1996)より一部抜粋
※和訳の掲載にあたり著者の許可を頂いている。
2003年9月9日 中国の経済改革欄掲載 「ロードマップなき市場経済への移行」:http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/030909kaikaku.htm
2001年11月19日 中国経済学欄掲載 「経済学の方法論としての個人主義と集団主義」:http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/011119gakusya.htm
も併せてご覧下さい。
樊綱 Fan Gang
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中国経済改革研究基金会国民経済研究所所長。1953年北京生まれ。文化大革命中における農村への「下放」生活を経て、78年に河北大学経済学部に入学。82年に中国社会科学院の大学院に進み、88年に経済学博士号を取得。その間、米国の国民経済研究所(NBER)とハーバード大学に留学し、制度分析をはじめ最先端の経済理論を学ぶ。中国社会科学院研究員、同大学院教授を経て、現職。代表作は公共選択の理論を中国の移行期経済の分析に応用した『漸進改革的政治経済学分析』(上海遠東出版社、1996年)。ポスト文革世代をリードする経済学者の一人。
2004年3月26日掲載
http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/040326gakusya.htm