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(回答先: あっしらさん、おはようございます。初歩の初歩の質問です。マクロとミクロは接続性はないのですか? 投稿者 hou 日時 2004 年 3 月 30 日 06:49:50)
houさん、どうもです。
ミクロ経済(学)の素養がありミクロの視点で経済を見ている人が、マクロ経済を捉えにくいと思うのはわかるつもりです。
企業経営者が“マクロ経済のためにという基準”で経営判断を行えば、その企業は破綻する可能性が高いと思っています(笑)
マクロを考えなければならない立場にあるのは、第一義的には官僚や政治家など国家の政策を決定する統治者層であって、企業経営者ではありません。(企業経営者がマクロを考える必要はないという意味ではありません。企業経営とマクロ経済政策を混同せずに、経団連などの組織活動を通じてマクロを考える必要はあります)
タイトルにした「マクロを「ミクロの集積」と考えるか「ミクロの相互関係活動総体」と考えるのか」は、マクロ経済をどのようなものとして考えるのかポイントだと思っています。
「ミクロの集積」とは、数多くの企業があり、それらが達成する活動成果の足し算がマクロであるという見方です。ミクロ(企業)の自存性を基礎に、自存するミクロの総和がマクロというものです。
「ミクロの相互関係活動総体」とは、数多くの企業があり、それらが相互に影響を与えながら活動を行なうなかで達成される成果がマクロであるという見方です。個々のミクロは自主的な判断と成果の所有を保証されているが、活動のパフォーマンスは他のミクロの影響を受けるというものです。
別の言い方をすれば、ミクロを独立した生命体として捉えるのか、それとも、ミクロは生命体を構成する有機的部分として捉えるのかということです。
企業経営者や国民がGDPを気に掛け、産業連関表や資金循環表が意味のある経済指標として考えられている現実に照らせば、ミクロはマクロの有機的構成体であり、マクロは「ミクロの相互関係活動総体」であるという認識はそれなりにあるのでしょう。
抽象論の正否を云々するのを控え、GDPが成長しているときはミクロが独立した生命体と思われていても支障はないが、GDPが低迷しているときは、その視点で見ている限りそれを打破する政策は生まれてこないという見方を提示します。
経済成長期は、ミクロとマクロの関係性(接続性)を意識する必要はなく、ミクロはただひたすら利潤追求活動を合理的に行なえばよいのです。それで、結果的に、マクロのパフォーマンスは高いものになります。
マクロ経済学が花開いたのが「大恐慌」の世界同時大不況であったのは、この意味で実に象徴的なのです。
マクロ経済学は、企業経営者ではなく、官僚や政治家など国家の政策を決定する人たちにとって重宝なものとして広まったことになります。
マクロ経済(学)を必要とするのは、経済低迷期の他に、後進国の「近代化」過程期です。この二つの状況では、ミクロが独立した生命体としてただひたすら利潤追求活動を合理的に行なえばいいというかたちで動けば、マクロのパフォーマンスは低劣なものになり、結果的に、多くのミクロが不振に陥ることになります。
houさん:「日本は、確かに海外勘定で10兆円近くのお金が動いていますが、この金額は日本のほぼ製造業が、稼いだお金で、10兆円近くまるまる、日本に投資された場合日本の低生産の市場により、オーバーキャパシティに飲み込まれるだけで、海外に強いノウハウをもつ企業が10兆円を海外で使った方が成長があるとおもいます。
それに日本の、国民経常余剰は、海外へ投資した分をのぞくと1兆3000億円くらい
ですし、その金額はほぼ貯蓄→国債か→外貨のままではないでしょうか?」
「日本に投資された場合日本の低生産の市場により、オーバーキャパシティに飲み込まれるだけで、海外に強いノウハウをもつ企業が10兆円を海外で使った方が成長があるとおもいます」というのは、ミクロの“短期”的判断としては間違いではありません。
しかし、それが輸出増加をもたらす海外販売網の強化や未開拓の市場に新規組立工場の建設などに投資されるのではない限り、日本のマクロとは基本的に無関係ですから、マクロのパフォーマンスを改善することはありません。
ミクロにとっても、収益の柱が日本市場にあるのなら、海外投資は日本市場の低迷から逃れる一時的な手段ではあっても、中長期的には他の好調なマクロ(国)を根拠地としているミクロとの間の競争を不利にする愚策です。
(この問題はかつてやりとりをしていますので省略しますが、世界的な同時不況になれば、自国ミクロ優遇策が採られるようにもなります)
もう一つ、オーバーキャパシティの問題ですが、私の「供給額→需要」論理は供給力や生産性の向上ではないので、いわゆるオーバーキャパシティを悪化させるものではなく、逆にオーバーキャパシティを改善するものです。(いったん給与などのかたちで手放したお金も競争力がある企業ならばそれ以上のお金を回収することができるという観点です)
経常余剰は15兆円ほどで、海外投資を差し引いても、6兆円から10兆円ほどの国際収支黒字があるはずです。
貿易収支に限定したのは、国際投資の勘定はとりあえず外して“実体経済”で考えようというものです。
(赤字財政支出を考慮すれば、毎年35兆円ほどのお金が新たに国民経済に流れ込んでいますが、国債費を差し引けば10兆円ほどが需要増加要素になります)
houさん:「日本の金利が低いのは、日銀による低利率ということはわかります。
しかし日銀が、こうまでしたのは、なにも社会に先行して行ったわけではなく、
銀行と公的資金(財政投融資)の競争により、民間銀行が押され公的銀行が大きな影響力をもち、国債を発行しすぎたことが原因ではないでしょうか。」
低金利政策の維持が「国債サイクル」を強く意識したものであることは確かだと思います。
銀行と公的資金(財政投融資)の競争があるというより、銀行と公的資金(財政投融資)は相互補完的なものであったと見ています。
財政投融資が民間企業にとって需要となり、その需要に応える投資のために銀行が貸し出したを伸ばしてきたという構造です。(住宅金融公庫などについても、このような見方ができます)
houさん:「もう、不良債権問題を議論して13年がたちますが、日本は直った直ったといいながら
あらたな不良債権をじわりじわりだしてきました。
市場で100兆かという議論のときに政府は、10兆くらいといってましたね。
計算方法が各人で違うため何とでもいえるのが、不良債権問題のやっかいなとこです。
わたしの経験では、政治上の影響力やOB、取引先などの影響が間接金融と持ち合い株を通じて引き延ばしてきたというのが私の感想です。」
バブル期の過剰貸し出しに起因する不良債権もまだ残っていますが、不良債権の増加分(不良債権処理分を考慮した)は「デフレ不況」に起因しています。
政府が不良債権処理を引き延ばしてきたことは事実です。
それを、「政治上の影響力やOB、取引先などの影響が間接金融と持ち合い株を通じて引き延ばしてきた」と見るのか、マクロの壊滅的な低迷を避けるために引き延ばしてきたと見るかは、どちらだとは言い難いのですが、経済論理としては「マクロの壊滅的な低迷を避けるために引き延ばしてきた」と見ることはできます。
houさん:「その間、オーバーキャパシティ(投資過剰・非競争社会・リスクテイク能力のない貸し出し)が、ゾンビ企業をささえ、そして低い金利でお金という商品を貸し込んで、その貸し込んだお金が無駄な材料として残り、それを処理するために、お金が必要になるが、そのときにはだれも貸してくれなく、そして、倒産、その状況は、金利が低くリスクがとれない(誰も処理費用を負担できず)あらたな投資先でなく、今までの企業を支えるという投資に終始するという状況がつづく。」
この問題は、すぐ上の話にもつながるものですが、競争関係にある他のミクロの収益を阻害したと見ることもできるし、競争関係にない他のミクロの収益を含むマクロの過剰な落ち込みを抑止したと見ることもできます。
houさん:「銀行は、そのもっともたるもので、国有化という前にペイオフが限定的になされている現段階では、預金者が動こうとせず、動いても郵便局へ移動するのが関の山です。
郵便局への口座移動や、資金の移動は2001年以降多くなっています。
このような問題が、逆ざや問題や、大きな政府(財政投融資約400兆)+財政支出という形で、民業を圧迫しています。
この圧迫が、オーバーキャパシティを生み、日本の組織を硬直化させていると思います。」
資金不足ならばこの論は成立しますが、日本は資金過剰(使われないお金がある)ですから、そうはいえないと思っています。
ペイオフを解禁したからといって、保有するお金を起業に使ったり株式投資に使う人がそれほど増加するとは思えません。
危ない銀行よりは財務状況がいい銀行も、預金量が増加したからといって、それを“有意義な”貸し出しに回すという経済条件ではありません。
「国債サイクル」を維持するというのが国策の至上命題であるならば、新規発行国債を超えない預金(貯金)が郵便局に移動しても民間を圧迫することはありません。
逆に、その分銀行が引き受けなければならない国債が減るわけですから、銀行の資金運用の自由度は上昇することになります。
さらに、銀行は、郵便局と違って日銀から資金を借り入れることができますから、新規発行国債を超えない預金(貯金)が郵便局に移動することは何ら問題ないといえます。
houさん:「また、このような投資環境と利回りでは、多くの新進気鋭の中小企業に新たな投資を起こすという気力はなくなり、借金返済にまわり、事実上銀行の貸出金利は、正当以下の競争つまりダンピング競争と似た状況が金融市場で行われていきます。
このように、今ある企業・組織が不良債権として消えたり、再編したりして、初めて新たな投資が始まっていくとおもいます。」
新進気鋭の中小企業に新たな投資を起こすという気力がなくなるのは、利回りではなく投資環境です。投資して利益を上げられると判断しているのなら、利回りの低さは投資意欲をさらに掻き立てるものです。
この問題は、偏に「デフレ不況」に関わるものです。
「デフレ不況」のまま、「今ある企業・組織が不良債権として消えたり、再編したり」したとしても、「デフレ不況」がさらに悪化し、投資環境もさらに悪化することになります。
houさん:「利回りが低いのは、
「低生産性問題」は、非輸出産業性・不動産関連コスト・高人件費によるものですから、問題にはなりません。とくに、高人件費は、第二次産業や他の第三次産業の需要に大きく貢献しているのです。
国内経済だけの問題で、すむなら話は簡単ですが。
プラザ合意後、日本は内需拡大で景気を盛り上げるということを何度も行ってきました。
しかし、そのやり方は、いままで公的に支配していた権益を確保しつつというものに終始し、新たな投資を(新たな支出)を妨げてきたようにみえます。
日本のこの低生産性が、身近なものとは遠い世界のものであれば、これほど投資効率も悪くなかったでしょうが、公的資金がささえるのは、たとえば、商店街であったり、規模の小さい食品会社であったり、床屋や喫茶、ホテル、医療など生活に欠かせないものばかりです。
また、住宅ローンなども公的資金でしたし、サービスも郵便貯金でした。」
利回りが低いのは、貸し出しに回せるお金の量と借り入れを望むお金の量の関係、そして、借り入れたお金で上げられると見込む利益率にかかわることです。
現状の日本は、国家(政府・地方自治体)を除く資金需要は低迷しており、投資(事業)収益も低いものしか見込めないので、低金利(低利回り)だと言えます。
1億円を投資して事業を行えば10%の利益が見込めるとなれば、3%の金利でも借りたい人は増えるはずです。それによって、金利も上昇することになります。
「プラザ合意後、日本は内需拡大で景気を盛り上げるということを何度も行ってきました」内実が、不動産投資や建設業向け需要拡大という歪なものであったが故に、バブル形成とバブル崩壊を経験しました。
しかも、「供給額増加→需要増加」ではなく政策的な需要拡大であったがために膨大な政府債務の増加につながり、今はそのツケを支払わされることで、需要縮小をもたらしています。
日本の高賃金は、基本的に“為替レートマジック”であり、生活レベルの実質で高賃金ではないという視点も重要です。
第二次産業の国際競争力が為替レートの円高に反映し、貨幣による国際比較で高く見えるだけです。(貨幣額ベースの国際比較で高い賃金でも国際競争力を誇っているということは、輸出企業がとてつもなく高い生産性を達成していることを意味します)
「供給額増加→需要増加」の論理で「デフレ不況」を克服すれば、購買力ベースで過剰な円高は解消され、見た目の高賃金も緩和されることになります。
houさん:民間最終投資の割合が高い日本経済において、はたしてGDP比のどこまでが低生産性を許されるものなのでしょうか?
おおむねGDPの30%から10%だと私はおもいます。」
結論的に言えば、許される低生産性は、貿易収支が黒字であるかです。
貿易収支が黒字である限り、その国民経済は、他の国民経済と比較して高い生産性を維持していると言えます。