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(回答先: 発展段階や財の多様性さらにマーケティング力でも変わることがないのが「供給額→需要」(供給=需要)の経済論理です。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 3 月 20 日 03:35:06)
「デフレが、生産量増加に対する供給額増加不足=需要増加不足で起きる」
供給側が間違えた供給を行った場合、それだけで需要減につながるので、
それを、処理する機能が健全に作動すればよいのですが、できない場合がほとんどです
日本の場合はかなり組織が固定化されて、投資が不良債権になっているのにその供給活動をやめさせる機能がないのが問題なのではないでしょうか?
デフレは、市場とのミスマッチを起こした企業をどのように処理するかにかかっています。
デフレを早期に払拭させるためには、不良債権の処理を小さい段階で処理する機能が必要です。
しかし、そのような機能がないところは、供給額を増やせば、需要が増加すると勘違いして、従来の組織システムで同じような供給を行ってしまうのが問題なのだとおもいます。
これでは、需要は貯蓄にまわることしかできず、せっかくの供給増加を打ち消してしまいます。
そして、従来のシステム維持のためさらに、貯蓄までもが不良債権に投資されていくという悪循環がめぐってきます。
そして経済はデフレに向かうのではと考えます。
ようするに、供給額の増加は行ってもいいですが、その前に従来の産業システムではなく組織を入れ替えて、需要を(貯蓄が消費に直接まわるように)召還できるような産業構造にするべきなのです。
日本は法律や条令、自己規制、通達など官僚の統制のもと事前チェック方式の阿吽の呼吸の元、経済を軌道に乗せてきました。
その経済の組織には、供給側の考えしかなく、計画も適当でした、誰が責任を取らなくてもある程度、供給額をあげれば需要が後追いするようになっていましたが、その規模が大きくなるにつれ、統制が困難になってきました。
とくに、プラザ合意後です。
自由なサービスが試みられたのも、あのころです(コンビ二・スーパー・ガソリンスタンド・金融商品の増加・サービスの増加)経済の選択肢が増えた分いらない供給額あったはずです。
しかし、それらは、インフレともに忘れ去られ組織が硬直化し、もうバブルの終わるころには立ち行かなくなっていたはずです。
特に建設業社の乱立が騒がれたのもあのころです。
そして、バブル後は、その維持のため、多くの税金が公的資金として投資されました。
その後も供給をつづけいていますが、一向に変わる気配はなく、無駄におわりました。
供給者側だけの需要予想とは、かなり不健全なものです。
ソ連がいい例であり、
計画経済のもと供給を行いましたが、その供給はかなりの不経済をおびています。
外部不経済にあたえる影響はおおきく、環境汚染も西側諸国の何倍にも達しているという報告もありました。
また、食料が流通経路で不正に処理され、現地に届かない、服も満足なサイズなどがないなど、不祥事が多発し、それを自己浄化できなかったのが社会主義の供給システムです。
そのような、組織構造をぶっ壊すといったのがかの、ペレストロイカをといたゴルバチョフであることは言うまでもありません。
社会主義という供給額のお手本は、日本でも例をあげることができます。
日産がいい例でしょう。
多額の投資を、供給する側の立場のみで構成したのような典型的な例です。
たとえば、普及型の旧マーチなどの車に、クラウン級の透過性能力をもつヘッドライト
などをつける理由があるでしょうか?
このような、事例はゴーン氏が改善していきましたが、これは、明らかに供給側ののみの計画により、供給額が無駄に使われている例です。
その供給額が多くなればなるほど(GDPに占める割合が上昇するほど)生活コストがかかっていきます、しかも意味のない生活コストです。
これぞ、バブルであり供給側のみの計画に基づいた失敗といえるでしょう。
需要の増加はいったんは、増えるでしょうが無駄なコストと気づいた消費者が需要を引き締め貯蓄に回しますが、銀行などがそういう会社と株式持合いなどで利益を分配しているのなら、その両者に監視する能力はなく、どんどんと無駄な投資が増加していきます。
供給がふえて、需要が一時的に増加しますでしょうが、それは、ほんとバブルの範疇でしかありません。