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(回答先: 恐るべきシュムペータ経済学を信仰する小泉・竹中コンビ [ガリバーたちが唱える「創造なき破壊」 No.26【2004年3月9日】千葉邦雄さん] 投稿者 乃依 日時 2004 年 3 月 09 日 23:48:45)
市場経済をめぐる「小さな政府」と「規制緩和」の罠
そして彼らガリバーたち(世界的な大企業を、私が独断で、ガリバー旅行記に出てくる主人公ガリバーに譬えたもの)にとって、地域に根ざした伝統的なコミュニティや独特の風習や、民族的な祭り等によって生まれる一体感や、しっかりとしたアイデンティティーを持った大きな政府等は、厄介な破壊すべき対象以外の何物でもないのである。
ガリバーたちが唱える市場経済は、国家や様々な地方の自然やコミュニティ内部に熟成された親密感や一体感を破壊して、サービスという市場的な取引関係に再編成することで、市場的な価値をうまく捏造してゆく。そして人々を孤立させ、市場経済を信仰する方向に持ってゆく。その破壊された親密な一体感の代わりに、市場経済のなかで商品を購入することで、あなただけ“特別な消費者”になることができると優しく教え込まれる。その特別なモノを何としても手に入れようとして、私たちは市場経済の労働者として組み込まれていく。
たとえば子供たちと一緒の素敵な家庭生活を実現するために、ある母親は託児所に子供を預けなければならないが、そのために高い利用料の分まで稼がなければならなくなる。その結果として長時間労働が常態化して、子供との楽しい家庭生活という最初の目的は永遠に達成されない、といったことが起きる。そんな具合に手段と目的が逆転してしまった例は、ローン地獄や受験戦争等で挙げだしたらきりがない。
ガリバーたちが唱える市場経済は、単にモノというだけでなくイメージであるもの、単にラインナップというだけではなくスマートでもあるものが、新たに世界文化の商品となる。各国の伝統的で独自の文化が日用品レベルの問題になりさがり、身なりが人の判断基準となり、見てくれがアイデンティティーと化している。このような商品文明の発信地がショッピングセンターであり、隣人なき郊外住宅地である。商品というよりはもはやイメージである新製品が、ロゴやブランド、ヒット曲やキャッチフレーズなどを通じて世界の流行を作り出していく。ハードな現実の力関係が、ソフトなオブラートに包まれる。市場の価値観を、国家の力や学校の権威を持って押しつけるのではなく、映画や広告の「ファンタジー」を通じて注入される。
情報・通信・管理といったものは実体ではなく仮想であるため、特定の場所や使命を持った物理的存在ではなく、コンピュータや電話、ファックスのネットワークで接続され、刻々と変わる一時的な関係である。ヘルベルト・マルクーゼが1960年代に予言したのは、個人の個性が一点に収縮されるということだった。
いまや報道と娯楽の境界はいよいよ曖昧になり、あらゆる差異や抵抗を吸収同化してしまう今日の市場の力は、マルクーゼの理論そのものである。消費が唯一の人間活動として、私たちの本質を規定する危機が、世界的な消費主義というかたちに膨らんで迫ってきている。物質資本主義だけですべての必要を満たし、すべての問題を解決できるという具合である。完全に規制をなくした自由市場だけが、私たちに必要な一切合財をすべて満たしてくれるというわけである。
そうした流れのなかで教育や文化、完全雇用や社会保険、自然環境の存続といった明らかに公的な分野まで民間に移そうと主張する者さえ出てきている。しまいには裁判から死刑執行まで民間にアウトソーイングされてしまうのだろうか。いまや市場経済という私たちの名のもとに、少しずつ解体が進められている「政府」は、本当のところは私たちの公共の利益と平等を守ってくれる唯一の番人なのである。
つまり、「大きな政府」を「小さな政府」にしてみたところで、鎖を解き放たれた国際金融財閥や大企業等の巨大なガリバーたちが、なんの規制もなくなった弱肉強食の市場経済のなかで「私たち小人」を踏み潰して、エゴ剥きだしで自由奔放に暴れまくるだけである。
四季に恵まれた自然を活かして、日本は「観光立国」をめざせ
ガリバーの唱える市場経済というものは、何であれ本源的な親密感や地域や自然との一体感を回復の見込みがなくなるまで「破壊」しておいて、その断片を切り売りすることが、あたかも価値の「創造」であるかのようなある種のインチキで成立している。だから私たちは、いろんなモノを消費し数限りないモノを手に入れたにもかかわらず、一瞬の逃げ水のような満足感だけで、孤独や不安からは決して逃れられないのだ。
シュムペータの「創造的破壊」という経済理論の信仰の結果である「小泉構造改革」では、私たちは幸せになれるどころか、それとは正反対の「絶望」に向かってまっしぐらに進んでいるようである。日本のネオコンである小泉首相の構造改革とは、私たち国民のためのものではなく、あくまでブッシュ大統領をはじめとするネオコンのためのものなのだ。
小泉首相は「自民党をぶっ壊す」と叫ぶことで国民とマスコミを味方に付けた。それ以来マスコミは小泉首相が「抵抗勢力」に喧嘩を売るのを応援し、それを煽った。どんな強い権力もメディアを敵に回してしまったら崩壊する。小泉首相は道路公団民営化論者を内閣の周辺に集めてから、国土交通省と「抵抗勢力」に戦いを挑んだ。マスコミは自民党の道路族議員たちにむかって、ここぞとばかりに批難キャンペーンを展開した。
その批難キャンペーンのなかで「公共事業はすべて無駄」というふうな言葉が行き交い、しまいには「熊しかいないところに道路を造るな」という流れになり、「道路行政は利権の巣窟」がマスコミの常識となってしまったのである。そして結論がでた今、多くの国民はなんだか肩透かしを食らったような感じである。
あくまで公共事業に対する私たち国民に対する嫌悪感を高めるために、公共事業を担当する行政機関をターゲットにしてマスコミがよってたかって集中攻撃したわけである。マスコミとつるんだ小泉純一郎が、国土交通省を悪役にするために巧妙に仕組んだようである。道路公団民営化を特殊法人改革の目玉にしてから、主要メディアは小泉首相の応援団と化して、道路行政をあたかも「悪の権化」であるかのように巧みに演出してみせた。
もちろん道路行政にも欠点はある。しかし欠点があることと、存在そのものを否定してしまうこととは別問題である。道路行政をめぐるマスコミ報道は明らかに異常であり、ある種の魔女狩りである。道路はあくまで日本の「財産」であり「宝」でもある。もし民間の所有物になってしまったら、極論を言えば、わずかの資金で、またしても国際金融財閥たちのヘッジファンドに乗っ取られてしまう可能性だってあるからだ。
とにかくこれからの日本に一番大事なものは、物資資本主義による“人工的なエゴ”の限りない拡大による「略奪と戦争」ではなく、豊かな自然を中心にすえた「調和と一体感」である。小泉構造改革は、中央重視であり、地方は見捨てられている。いま大切なのは地方であり、自然である。四季の変化にとても恵まれた縦長の日本列島は美しい。『観光立国』としての日本を、政府は大々的なキャンペーンによって、その四季の美しさを世界に向かってPRしていくべきである。
全国レベルで高速道路網が整備されていれば、多くの文化遺産、変化に富んだ観光資源を持つ地方が、観光によって再び活性化する。これによって地方再生の第一歩が踏み出せる。地方再生の公共事業は、日本を世界に向かって売りこむ『観光立国』としての大切なインフラになる。さらにいえば将来の人口の高齢化を乗り切るために、苦肉の策のひとつとして、移民を本格的に受け入れる政策を日本政府は取るべきである。国家を挙げて『移民ビッグバン』政策を行なえば、もう一度パワフルに若返るチャンスが、日本の未来に訪れるのである。
《主な参考文献および記事》
(本記事をまとめるにあたり、次のような文献および記事を参照しました。ここに、それらを列記して、著者に感謝と敬意を表すると共に、読者の皆様の理解の手助けになることを願います。)
★ 森田実の時代を斬る 2004.3.2 あえて「抵抗勢力を支持する」――日本再生のためには、やはり公共事業が必要である≪その8≫
★ 森田実の時代を斬る 2004.3.1 あえて「抵抗勢力を支持する」――」日本再生のためには、やはり政府・地方自治体による公共事業が必要である≪その7≫
★ 経済コラムマガジン 2003.7.14(第305号) 頭が破壊されている人々
★ 経済コラムマガジン 2003.7.21(第306号) 企業経営と創造的破壊
★ 『グローカル』643号より 宮部彰 「創造なき破壊」進める自民党政権にノーを!
★ 消費する「自由」のある世界 ベンジャミン・R・バーバー ル・モンド・ディプロマティーク1998−2002