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(回答先: 特に反論はしたつもりはなかったんですが・・・・ 投稿者 律 日時 2004 年 7 月 16 日 09:52:37)
律さん、どうもです。
>あっしら様、なんだかいっぱい不愉快な思いをさせたようですみません。
>別に基本的には反論したつもりはなかったです。
不愉快になったわけではありませんが、誠実なやり取りで相手に不愉快にさせたとしても気にする必要はないと思いますよ。
レスは反論になっていないと思っていますよ(笑)。
言葉の選択が不適切だったと反省していますが、「反論」という言葉に重い意味があるわけではありません。(「返球」と同等のものだと受け止めてください)
>ただ、あっしら様にちょこっと反論した点があるとすれば、現代の「女工哀史」が起
>きてきたのは、「企業」「政府」の経済論理が現況であって、フェミニズムが「女性
>の社会進出」を主張したからではない(後押ししたとしても)のでは、というところ
>です。
まだ理解されていないようですね、「「企業」「政府」の経済論理」なんてものは存在しません。
「企業」も「政府」も、そして、「勤労者」も「農民」も「その他の国民」も、同じ経済論理に規定されています。
「企業」は、錯誤や誤りに満ちているとはいえ、その経済論理を自分なりに解釈して自分にとって最大の利があるように行動するというものです。
「政府」は、「企業」を主要な経済主体だと考えているので、「企業」の利に沿った政策を採ろうとする。
「勤労者」も、力は限られているが、自分たちの利を追求しようとする。
しかし、どの層も、経済論理に逆らうかたちで利を実現できないのです。
>私の考えるところによれば、もしフェミニズムが「女性の社会進出」が必要といわな
>くても、現在のような経済システムであれば、女性もおいおい職場進出(社会進出よ
>りこっちのほうが正確ですよね。女性だってずっと社会の一員だもの)するように
>なっただろうし、現在のジェンダー状況であれば、企業は現在のように安く女性労働
>を雇おうとしただろうと思います。フェミニズムはそれを促進したかもしれなくても、
>原因ではないので、フェミニズムへの糾弾は強すぎやしないかというくらいの反論です。
「現在のような経済システムであれば、女性もおいおい職場進出(社会進出よりこっちのほうが正確ですよね。女性だってずっと社会の一員だもの)するようになった」とか、「「現在のジェンダー状況であれば、企業は現在のように安く女性労働を雇おうとしただろう」というデタラメな分析をしないでください。
女性の職場進出がごく限定的なとき(1960年頃)から現在に至るまで、生産性は徐々に上昇し、生産性は5倍以上になっています。
当時の生産過程就業人口を4000万人とすれば、現在は800万人で質は向上した同じ量の財を生産できるのです。2000万人が働けば、70年中期頃の量の財が生産できます。
これは、4000万人が「社会から撤退」し遊んでいても、国民全体が70年中期頃の生活が営めるということを意味します。
どこに、「女性もおいおい職場進出・・するようになった」という解釈を支える経済論理があるのですか?
「産業資本主義」の終焉シリーズで書いている内容は、「夫ひとりで得るべき所得を夫婦共稼ぎで得るようになった」という説明でもあります。
利潤獲得を目的とし、人をそのための手段として扱うような場には、家族が生きるためにやむなく夫(妻)は出すけど妻(夫)は出さないという運動をしていれば、家族の誰か一人が外に働きに出るだけで、財的には今とそれほど変わらない水準だったと説明しています。(その代わり、そのような構造だとサービス業は発展しないので、家事が増えることは確かです)
企業が安く女性を雇いたいと思っていても、そのような価値観で武装されていれば、安くは雇えないから必要な女性の給料は高くなるのです。
このような経済論理も理解せずにあれこれ主義主張を語るから、フェミニズムや左翼は、“彼ら”の無自覚なエージェントだと指弾しているのです。
善だと思って悪を為す行為、とりわけ、他者のために善だと思って悪を為す行為に対しては、どれだけ強い糾弾を行っても足りないと思っています。
おかしな言い方ですが、悪と思って悪を為している“彼ら”よりも悪質だと思っています。
【律さん】
「また、下のスレッドの「家族」のことですが、あっしら様が従来「家族」も支配層に使われてきていると、ずっとそうおっしゃっているのはわかっています。そして、これから目指すべき社会の基盤となる「家族」は従来の「家族」定義とは異なる中身を持っているというのも大体理解しています。
わかっていますが、それなら、いろいろ手垢のついている「家族」という言葉を使うのは危険ではないのですかと聞いておりました。「家族的なもの」を基盤とすること自体に反対しているわけではありません。そのように読み取られたのなら、やはり私の書き方の悪さであって、まったく申し訳ありません。
要は、家族は「生活の場」というのなら、「生活の場」とか「濃密な他者関係性」という言い方のほうが誤解も生まれずに、「安全」じゃないのでしょうか、という提案です。
私には「家族」も、結局のところ「高みにたって現実を客観化する思考習慣」から出てきた言葉であるように思えるので(家族という言葉ができる前に家族的なものをなんと呼んでいたかは知らないけれど)、そのように「家族」という言葉をお使いになることで、逆に支配されやすい素地を作ってしまうのではないですか?という危惧の表明です。」
私が「家族」にこだわるのは、人が「自由」になれる必須条件は生存手段の保有にあると思っているからです。
「開かれた地域共同体」の基礎実体である「家族」は、自営農民を想定しています。
自営農民同士が協働で農作業をしたり、産業労働好きの自営農民が産業労働嫌いの自営農民と「労働の交換」をして農業をしない人がいるとしても、基礎実体は自営農民であるべきだと思っています。
生存していくための手段を保有していない人の「自由」なぞ空虚なものです。
(生産成果のある量を共同体に供出するのなら、閉じこもって自給自足するのも「自由」だと考えています)
家族関係も固定的なものだとは思っていませんし、子どもがどの時点で自立するかという問題も今のような年頃を考えてはいません。
しかし、自営農民である「家族」が社会(共同体)の基体であることが何よりも重要だと思っています。
あっしら様*************
まだ、国家という抽象的概念を実体化する思考習慣から脱しきれないようですね(笑)
国家は、家族関係を形成する諸個人の関係性の統合形態であり、国家という言葉(概念)はそれを約めたものです。
ですから、家族関係を形成する諸個人の関係性の在り様が変わることでのみ国家の在り様も変わります。これが、国家を実体化せず国家に価値性を見ないという考えの根拠です。
***************
>これも上記と似たような疑義です。抽象的概念を実体視した「国家」という言葉と、
?あっしら様のいう「家族関係を形成する諸個人の関係性の統合形態」としての「国
>家」が、同じ「国家」という言葉で表現されてよいのでしょうか、ということですね。
>「近代」において散々使われてきた用語をそのまま使用して、新しい提案をするとい
>うのは、誤解を招きやすいのではないでしょうかと。
近代国家も、その統合形態が近代的というだけで、「家族関係を形成する諸個人の関係性の統合形態」です。
「近代」は、「家族」を解体してアトム化した個人を生み出そうとしてきましたが、国家社会の再生産から「家族」は必要条件であり、ぎくしゃくしながらも「家族」は実体的基礎として生き残っています。
(「近代」の「家族」の特性は、生産基体が抜け落ち、消費基体になっていったことです。これが、家族関係のぎくしゃくの一つの要因だとも思っています)
【律さん】
「最近のフェミニズムの仕事は、意図したところからずれていってしまっているのはなぜか、という、そういった反省から導き出されているものが多いのではないでしょうか。
あとひとつ、あっしら様に反論があるとすれば、フェミニズムだって血反吐を吐く思いでいろいろやってきている人たちがいるのに、そのような人も何もかも十把ひとからげにしてフェミニズムだから「思考怠惰」とやってしまうことです(私はフェミニストではないですけれども)。」
血反吐を吐く思いで頑張った成果が“彼ら”や「企業の論理」を喜ばせるものだったというのは、より深刻な「思考怠惰」と言えます。
自分が主張していることはひょっとしたら悪につながるのではないかと、血反吐を吐く思いで考えることが重要です。
弱者やマイノリティのために善をなしたいという思いで思考をすれば、空虚な思考につながっていきやすいのです。
善を為そうとするのではなく、悪を為さないことを考えるほうが、“彼ら”が生み出した価値観や経済論理でがんじがらめにされている現実では有効であり重要です。