現在地 HOME > 掲示板 > 議論18 > 469.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: Re: どういたしまして 投稿者 NUE 日時 2004 年 6 月 30 日 01:57:19)
ぷち熟女さん、あっしらさん、NUEさん、こんばんわ。
NUEさんに続いて、深海探査船2号の試みをしてみようかと思いましてね。
一連のスレッドを読んでみたんですが、ちょっとため息がでてしまい私も少し落ち込んだ分、深海探査もやりやすいかと思ったりします。
とはいえ、私には一連の論議の流れの焦点がどこにあるのかはっきり分からず、もともとあっしらさんとぷち熟女さんの話のベース自体が一致していないのだろうと見えますね。
粗いことを言わせてもらえば、要するにセックスというものが、特殊なコミュニケーションなのか、それともコミュニケーション全般の一側面なのかということなのかと思います。この境界を引くのはとても困難です。
これは、一概に前者がぷち熟女さんで、後者があっしらさんだとは言えないわけです。
多分、あっしらさんの土俵ではこのようになり、ぷち熟女さんの土俵ではこれが逆転するのではないかと思います。
一般的には、論議をベースにした「即物的」な土俵では、あっしらさんの仰ることはそれほど突飛なことではないでしょう。しかし、ぷち熟女さんは、この土俵ではこの手の問題を話していない、もしくは話す気もないというように見えました。
私は男ですので、あっしらさんの仰ることは一応「男の理想」のヴィジョンでもあるかと思いますが、これはやはり男の生理的側面が自己完結しているのかともと思いましたね。
私は天の邪鬼なので、確かに日常で私から見た「いい女」に出会うと「やりてー」という衝動を覚えますが、もう一人の自分は「だからなんなの?」といなして終わってしまいまして、それで欲求不満になるということがありません。
また、腹が減っても「それで?」ということで2日3日そのまま仕事をすることもあります。
これは肉体なんて使い倒してくたびれたら、またどこかに転生でもすりゃいいよという、肉体の生理もへったくれもないという変な生き方をしているので、こういうのはあっしらさんには困った男の同類であるかと思います(笑)。
従って、部分的な抜き出しをするのは卑怯者かと思いますが、あっしらさんの、
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/309.html
『これを読んで、「外見」のない「行為」は存在するのか、逆方向で言えば、「行為」のない「外見」は存在するのかという問いが浮かびました。
「外見」のない「行為」は、思考(想像)のなかには存在するが、感覚的世界には存在しない、と思っています。』
これは、全面的には納得できないですね。「感覚世界」というのは5感に限定しているというのが前提だと思いますが、私はここから逸脱する世界つまりは5感で感覚できない世界のほうが莫大だと思っているもので、「思考」(想像)もエネルギーとして感覚に等しい「ソリッド」なものを持っていると思っています。また・・・
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/390.html
『セックスにこだわり、その過程で得る感応よりもスルことにより高い意義を見出すほどセックスを“神格化”してしまう男性は、そのようなセックスの対象である女性が持つ慈愛の枠内で戯れて生きるほうが幸せなのかもしれません。』
私もセックスを“神格化”しているところはありますが、これと「スル」ことが直結していないという困った奴でもあります。これは、物理的な接触=セックスではあるものの、物理的な接触がセックスの目的にはなり得ないという“神格化”をしているからなんです。
私は誰かとセックスしているときは逆に肉体性が薄れてしまいます。これは感覚が消滅していくという「感覚」があるわけです。このような感覚はたまに一人で街を歩いていてもあるんですが(困りましたねえ)、性行為に及んでいるときはとくに顕著になります。
これは、相手とのエネルギーが合成されて別のモノになる感覚でもあります。ある種のフーリエ変換が起こっているのだろう思っています。
これは、私にとっては楽しいので、「未知の女性」とダンスをするようにセックスをするよりも、このような感覚を共有できる特定の相手と一緒にいるほうが飽きないわけです。
このようなときの「感覚」はヴィジョンとしてやってくるわけですが、これは、ぷち熟女さんが提示されていた「ヴィジョン」に酷似しています。
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/1020.html
『意識だけになったように感じながら音も時間もないところに漂っており、
自身の上下左右と言わず、気の遠くなるような無限大の闇が広がっているような感覚に襲われます。
闇は、しかし完全な闇ではなく、
それぞれがある色彩の輝きを持った不定形の小片のような浮遊物に満ちているのが見えます。
それを見渡したところは、玉虫色の螺鈿が塵芥となって浮かんだ漆黒の闇みたいなんですね。
無限に広がる万華鏡の内部のような世界です。』
また、
『やがて、その自分の意識の手をつかまえる他者に出遭いますが、
その存在も多分、この闇の、自分が抱いているのとはまた違った部分を抱いて生まれ、
取り込み続けてきたのでしょう。
・・・
つまり、もともと相互のコミュニケーションへの希求なしには
他者とは繋がれないようになっている、というヴィジョンなんですね。』
というのも「感覚」としてよくわかります。
また、私はニューエイジ的な言い方をすると、聖地などに群がる人達も、その土地の電磁エネルギーと自分のエネルギーをマージさせて(つまりはセックス/コミュニケーションですね)、ぷち熟女さんのヴィジョンのようなものを感得したいという希求(場合によってはジャンキー状態)があるのだろうと考えています。
この、ぷち熟女さんのヴィジョンに対して、あまりレスが付いてないのは私は悲しい思いで見ていました。「スル」ことに拘る現代社会の即物性(あっしらさんが意図的にこれに限定しているとしても)が阿修羅にも浸透しているのだろうと思っていましたね。
そして、補助的な行為(セックスなど)なしでこのようなヴィジョンを紡ぎ出すぷち熟女さんに感嘆していたんですが、それだけにレスが付けられなかったのでした。
だから、あっしらさんがぷち熟女さんのこの投稿にレスをしていないのは、日頃の言動から整合性があるにしても、ぷち熟女さんが深海に沈む大きな原因が既にあったということだと思います。
というわけで、私のぷち熟女さん寄りな「感覚」からは、コミュニケーションとはエネルギーのマージ(統合)であり、それはセックスであるとも言えてしまうわけです。
私は全ての「やり取り」はセックスであるというセックス原理主義者なのかもしれません(笑)。