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(回答先: 「産業主義近代」の終焉は、マルクスではなく、ケネーの正しさを実証する:重農主義者は「産業主義近代」の終焉を予感していた。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 27 日 15:05:19)
あっしらさん、いつも面白いお話をありがとうございます。
・・・と言いつつ、当方、圧倒的に知識が足りないタダのおバカなので「面白い」ということしかわかりません(笑)。でも、「なぜ、面白いと感じたのか」を書くことぐらいなら出来そうです。そんなこと書かれてもあんまり面白くないかもしれませんが(笑)。
重農主義の「産業は不生産であり富を生まない」という考え方はとっても面白いし、ある面の真実を言い当てているようにも思います。「産業が富を生み出している」というのは、ぶっちゃけてしまうと「人間が勝手にそう思っているだけよーん」だということですが、しかし、まぁ、この世界は人間の思いこみというか共同幻想によって成立していたりもするので「産業による富も富と考えてもいいじゃん」ということだったのでしょう。しかし、それは我々が「国家=地域」によって分断されていた(電位差があった)からこそ、有効であったと。
しかし、世界が「(電位差のない)ワンワールド」の方向に向かっているのはたしかなことのように見えます。で、この「ワンワールド」というのは、ちょっと前に流行った「帝国」という言葉に置き換えてもいいかもしれません。この「帝国」は現在の「国際」の一つ上のレイヤー(層)にあるものだと思います。で、このレイヤーでは「国家」が実質的には消滅してしまう(見えなくなってしまう)はずです。逆に「帝国」は我々が存在する「産業国家」の側から見ても見えない(制御できない)存在になってしまうはずです。
「帝国」という概念は、例の「オートポイエーシス」概念を世界・歴史に適用したものだと思いますが、オートポイエーシスでは下の層での作動はその上位層での作動とは断絶しています。……言い方が難しいのですが、上下が「非連続に繋がっている状態」ですね。この「非連続に繋がった状態」を実体化したものが金融経済だと思います。金融経済では富は水平電位差からは生まれず、垂直の電位差から生まれる、と考えることができるように思います。
垂直電位差による富というのは、株式市場(のようなもの:デリバティブみたいなものも含めて)、あるいは宝くじ(のようなもの)、あるいはお布施(のようなもの)、あるいは賭け麻雀(のようなもの)によって生まれる富を想定しています。垂直電位差による経済活動というのは言い方を変えると「人間の欲望をモノ=産業経済を迂回させずに直接的に売買する経済」です。
モノを作って売って利益を上げる産業経済は非常に時間も掛かりますし、人間の好みだの流行だの不確定要素が多いのでマーケティングだのブランディングだの面倒で余分なものが必要になりますが、欲望を直接的に売買するのであれば、話ははるかにシンプルになります。「産業? んな面倒でリスクのあることやってられっか」ですね(笑)。金融経済というのは(モノの)質量から自由になれる経済でもあるはずです。
そして、ご存じのようにこの金融経済の規模はいまや実体経済=産業経済の数十〜数百?倍の規模になっていると言われています。これを動かせば(ナントカ通貨危機のように)産業国家単位の経済を簡単に破壊できるようになってしまっています。つまり、実質的にはすでに「国家による産業経済の時代から帝国による金融経済の時代へ」と変わってしまっていると考えるほうがわかりやすいと思います。
で、この2つの層を「非連続に繋がった状態」にしているのはいったい何か、というと、不思議なことにそれは我々自身なんですね(笑)。帝国の圧政に苦しむのも我々だし、帝国を支えているのも我々です。我々の欲望・欲動によって帝国は生きながらえているわけです。
・・・ちょっと変な例かもしれませんが、昔、バブルの時代、マイホームを手に入れようとして(才覚のない)我々はせっせと頭金を貯金しました。が、その貯金は金融機関によって土地転がしの原資に使われました。つまり、我々が貯金すればするほど、マイホームは遠のいていったのでした。ま、それと同じような構造になっていると考えていいのではないかと思うのです。
あー、何が言いたいのかわからなくなってきました。この辺がおバカの限界ですね(泪)。