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(回答先: 正統の哲学Cトクヴィルの警鐘―「平等」は「自由」を駆逐する― 投稿者 竹林の一愚人 日時 2004 年 6 月 21 日 14:57:47)
竹林の一愚人さん、どうもです。
「正統の哲学」シリーズが残りあと一回というのは寂しいですね。
トクヴィルとは長大な『アメリカの民主政治』を拾い読みした程度の関係しかありません。
とにかく、人や政治についてよく理解し、素晴らしい洞察力を持っているひとだなと感心した記憶があります。
これまで、次回がハイエクだということなので彼を含み、取り上げていただいた人物のなかでもっとも話をしてみたい相手です。(トクヴィルの次にはオルテガです)
>○貴族政治よりも民主政治のほうが専制に陥りやすい(『アメリカの民主政治』より)
「各個人が弱く、そして諸個人が共通目的に結束していない国で、どうして圧制者に反抗できるであろうか」というトクヴィルの訴えは、そのまま日本の現状に適用できます、ね。
私のように、近代民主制は、ある価値観を持った支配層が支配を隠しながら安定的かつ合理的に支配するために、諸個人をアトム化することを通じて判断力を制御し、政治的責任を抽象的なアトムの集合である国民に転化するものだと考えている者には、トクヴィルの言説は物足りないとは言え理解できるものです。
(「民衆が権力を握ったときには、さらなる「専制」、多数者の専制が生まれる」のは、支配者に唆されてそうなるのであり、“自発的”にそうなることはめったにないと思っています)
民主政治の「専制」には、その内でそうであることが自覚されることなく行われる「専制」と、多数がデモクラシーに絶望したために望まれて出現する専制とがあると考えています。
どちらに救いがあるかは難しい判断ですが、私は、望まれて出現する専制に一票を入れたい。
「専制」をデモクラシーと錯誤している限り「専制」から抜け出そうとする志向力が生まれてこないだろうな思うからです。その一方で、錯誤に気づいたときには、デモクラシーが生きているのだから、「専制」をスムーズに解消できるメリットがあります。
多数派が望んで出現した専制は、それが手段であるという認識は共有されているので、不要になれば解消に向かう力が生じると思うからです。その一方で、専制的支配力を手に入れた支配者が、権力の魔性から自由になって権力を手放す選択をするのは稀だろうという危惧心を持ちます。
>○無制限の「主権」は人々を堕落させる(同上)
抽象的でアトム化された人々に無制限の「主権」を与えるとしても、せいぜいが“認定書”レベルの話で実体がないことは明瞭です。
抽象的でアトム化された人々に無制限の「主権」を与えることはできないという意味で、「立憲国民というのはよほど難しいだろう」という判断に同意します。
>○平等は人々を隷従に導きやすい(同上)
>○自由と平等は二律背反である(『旧体制と大革命』より)
今の日本(世界)では、「法のもとの平等」さえおろそかにされていることに大きな危惧を持っています。
あらゆる人が国民として平等である民主制が「あらゆる平等」を善とする気分を醸成することは確かですが、それが「法のもとの平等」さえないがしろにされている現実への批判に向かわないことに平等観念の危険性を感じています。
私は、差別主義では言葉が悪いので、差異主義こそが「自由と平等の二律背反」を打破する鍵だと思っています。(人の個別性を出発点にすべきというだけのものです)