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あっしらさん、毎回貴重なコメントをありがとうございます。
今回トクヴィルを取り上げ、次回ハイエクを取り上げて、この「正統の哲学」シリーズは一応の区切りとさせていただきたいと思います。
アレクシス・ド・トクヴィルは、『アメリカの民主政治』が有名であるが、ほかに『フランス二月革命の日々』、『旧体制と大革命』があります。『アメリカの民主政治』では、大衆社会の病理に失望しながらも、なお希望を失っていないトクヴィルであるが、あとの2つの著作ではもうほとんど“絶望”の感が漂っています。なにに絶望しているのかといえば、「デモクラシー」そのものにである。
○貴族政治よりも民主政治のほうが専制に陥りやすい(『アメリカの民主政治』より)
【貴族政治では人民は極端な専制政治を免れているといえる。なぜかというと、そこには常に組織された諸力があって独裁者に反抗する用意がととのえられているからである。地方制度を持たない民主政治はこのような害悪に対して何らの保証を持っていない。〔中略〕各個人が弱く、そして諸個人が共通目的に結束していない国で、どうして圧制者に反抗できるであろうか】
トクヴィルは貴族出身であるが、彼自身は祖国フランスの貴族たちを軽蔑していた。それでもなお、かつて健全に機能していた封建制下の「貴族政治」と、地位が平等になった「民主政治」とを比べたとき、「専制」という観点から見ると、後者の方がより過酷であると彼は洞察したのです。アトム化された個人には、国家に対抗する手段がないことを憂えているのでしょう。だがそうして独裁者に抑圧される民衆をかわいそうに思いながらも、その民衆が権力を握ったときには、さらなる「専制」、多数者の専制が生まれるということをもっと危惧していました。
○無制限の「主権」は人々を堕落させる(同上)
【どんな政治形態でも、それらすべてにおいて、下劣は暴力に、阿諛は権力に、それぞれ結びつくものであるとわたくしは信じている。人間が堕落するのを防止するには、一つの手段だけがあるとわたくしは思っている。それは、誰にも人々を愚劣なものにする全権を、主権を与えないことである】
アメリカの憲法には「主権」という言葉はありません。それは、多数者の専制を防止する上で正解であるとトクヴィルは感じたのではないでしょうか。立憲君主でさえ成立させるのに苦労した時代であります。立憲国民というのはよほど難しいだろうと考えていたに相違ありません。
○平等は人々を隷従に導きやすい(同上)
【現代の諸国民は、自らのうちに地位が平等でないようにすることはできないであろう。けれども、地位の平等が隷従または自由に、文化的啓蒙または野蛮に、繁栄または貧困に導くかどうかは、諸国民自身の努力にかかっている】
トクヴィルは、不平等が基本である貴族政治に、時たま強く憧憬のまなざしを向けます。しかし、すぐさまそのようなことは現代では無理であるから、どのようにすれば平等主義的社会の中に「自由」を出現させることができるのか、ということに視点を戻そうとします。
ここの一節は、『アメリカの民主政治』の最後の部分でありますが、あれだけ本文において「平等」を批判していることを考えると、これはあまりに過分な彼の希望的観測であったと言えます。その証拠に、晩年になって彼はその希望的観測を放棄するのです。
○自由と平等は二律背反である(『旧体制と大革命』より)
【自由は物質的利益をもたらす、という考えがあるが、そこからだけ真の自由への愛が生まれるとは思わない。なぜなら、このような考え方は、多くの場合徐々に希薄になっていくものだからである。確かに自由は、いつかは必ず、自由を守ることのできる人々に安楽、裕福、そして多くは富をもたらすけれども、こうした利益の享受を一時的に阻害することもある。専制だけが、その一時的享受を可能にするときもある。自由の中に物質的利益を求めるだけの人々は、長い間自由を保持することはなかったのである。いつの時代においても、人々の心を自由に強く引き寄せたのは、自由のもつ魅力そのもの、自由がもたらす利益とは無関係の自由そのものの魅力である。神と法だけが支配する世界で、何の拘束も受けずに言葉を発し、行動し、息をすることのできる喜び、これである。自由にそれ以外のものを求める者は、隷従にこそふさわしい】
彼にとって唯一喜ばしい「平等」は「法のもとの平等」であります。しかし、この「平等」は不可避的に「不平等」をもたらします。貧富の差は、「法のもとの平等」が保障されていればこそ生じるものであるからです。それにもかかわらず、デモクラシーにおいては、人々はこの「形式的平等」には満足せず、「実質的平等」を絶えず求めようとする。そうした心情がある限り、デモクラシーの社会に「自由」は出現しないというのが彼の結論です。
彼にとっての「自由」とは、本文の「神と法だけが支配する世界で、何の拘束も受けずに言葉を発し、行動し、息をすること」なのでしょう。