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(回答先: あっしらさんへ。支配ー被支配の構図について。 投稿者 オニオン 日時 2004 年 6 月 20 日 20:37:06)
オニオンさん、どうもです。
【オニオンさん】
「 動態的な関係性について。
あっしらさん「人はある時点まで生き続けるものですから、静態的な“関係性”ではなく、動態的な“関係的活動”を物事を考える際のキーワードにしています。」
これはもの(物、者)同士の関係は普遍的なものではなく、常に変化し続けるものであり、その事を見越した上で行動しろと。そのように受け取りました。自分の働きかけ、或いは受け止め方の変化で文字通り”世界”は変わると。だから自己の望む世界を目指して、世界と関わるべきである、、かな。
ここでも見聞を広め認識を確かなものとし、且つ世界(他者、物、自然)との間に間主観的合意を得るために「話し合い(言語外のものも含む)」が大切であると言えるのでしょうね。」
一つだけ、「これはもの(物、者)同士の関係は普遍的なものではなく、常に変化し続けるものであり、その事を見越した上で行動しろ」の部分については、
静態的な関係性はそのようにも説明できるが、動態的な“関係的活動”で得た認識の断面的な説明でしかなく、人は、本源的(本能的:笑)に、動態的な関係的活動として事象を認識していると考えています。
(静態的な説明も、効率的でわかりやすいという意味で有用性があると思っています。関係的動態認識を言葉(論理)で説明するのはムリがあり、関係的活動を通じて“実証”“実感”するしかないのかなとも考えています)
【オニオンさん】
「 支配ー被支配の構図について
上の事を踏まえて考えると世界、その中でも特に人間世界に深く関わりそれを動かそうとする人間(リーダー、又は支配者?)は他者との話し合いに細心の注意を払う必要(義務)があるともいえそうですね。あっしらさんは以前特定のタイプの方、冷静な話し合いが出来ず自分の意見を押し付ける方には政治指導者にはなってもらいたくないと言っておられましたが、こういう理由でいいのでしょうか?」
政治指導者になるならないではなく、反体制や革命を標榜する政治運動に関わって欲しくないという意味で書いたと記憶しています。
【オニオンさん】
「ただこのことは逆に言えば、支配ー被支配の間で双方向的な話し合いが成されていれば「支配ー被支配」の構図は分裂(意識)を醸成するとは言い切れないのではないでしょうか。老子の「人は本来何らかの規定や強制がなくとも他者や自然と調和しながら生きていくもの」という言が仮に真実だとしても”役割”の違い程度のものはあると思うのですが。この辺はどうなのでしょう?
(「支配ー被支配(主ー客)」間の分裂は意識の上では起こりうるとしても、一揆や選挙などで被支配の側が支配の側に働きかけることもあるので完全な分裂は起こらぬものとして、「分裂(意識)」と書かせていただきました。)」
「支配―被支配の関係構造」は、意識の分裂ではなく、人々の社会的な在り様の分裂を意味しています。(意識の分裂はそこからの派生です)
良心的で安定的な支配をめざす支配者は被支配者と真摯に話し合うかもしれませんが、それはあくまでも合理的な支配のためであり、支配が危うくなるような方向に行けば手のひらを返すはずです。(革命中国の「百家争鳴運動」→「反右派闘争」を思い浮かべてください)
「前近代」では、しょせん対立する被支配者たちと話し合う愚を選択するのではなく宗教に帰依させる手段が一般的でしたし、「近代」では、よりスマートに公的学校教育を通じて世界観や価値観を制御する手段が一般的です。
いずれにしても、強制力が支配を究極的に支えるものであることは変わりはありません。
階級対立や経済的利益の吸い上げといった問題がないとしても、支配者と被支配者は、絶対的に乗り越えられない対立関係にあると考えています。
教師と生徒の関係や飼い主とペットの関係から類推するイメージしやすいかもしれません。
現在被支配者の立場にある人たちが、他者関係性を基礎に支配者なしで自己と他者を統合できるようにならない限り、慈悲深い支配者にめぐまれるか暴虐の支配者に苦悩するかという差異の範囲から超えることはできません。(その違いを軽く考えているわけではありませんが...)
支配(統合のために管理)する層と支配される層に分断されている限り、主―客の分裂も解消できないと考えています。
支配―被支配の関係性は、指導―被指導の関係性とは根底的に異質のものです。