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あっしらさんこんにちわ。「“関係性”・“私”・老子などについて
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/262.html」
のレスです(いつも遅くなってすみません、、)。
「私」について。
あっしらさん【「私」は、これほど確かな存在感を示すものでありながら、私にさえ到達できない存在です。
そう考えている「私」を考えることが思考の深化だと思っていますが、究極の「私」を考えることはできません。なぜなら、究極の「私」を考える私がいるのなら、対象の「私」は究極の「私」ではないからです。
「存在していると確信しているのに見えないもの」と言うと超越神に似ていますよね。
「私の実在確信とその認識不能」をわかることが、もう一つの「梵我一如」の入り口であり、“無”を知ることだと思っています。】
申し訳ない(その上情け無い)のですが、この辺りの話はまだちょっと理解が追いつきませんでした。他のテーマと混ぜ合わせながら追々学ばせてください。
動態的な関係性について。
あっしらさん「人はある時点まで生き続けるものですから、静態的な“関係性”ではなく、動態的な“関係的活動”を物事を考える際のキーワードにしています。」
これはもの(物、者)同士の関係は普遍的なものではなく、常に変化し続けるものであり、その事を見越した上で行動しろと。そのように受け取りました。自分の働きかけ、或いは受け止め方の変化で文字通り”世界”は変わると。だから自己の望む世界を目指して、世界と関わるべきである、、かな。
ここでも見聞を広め認識を確かなものとし、且つ世界(他者、物、自然)との間に間主観的合意を得るために「話し合い(言語外のものも含む)」が大切であると言えるのでしょうね。
支配ー被支配の構図について
上の事を踏まえて考えると世界、その中でも特に人間世界に深く関わりそれを動かそうとする人間(リーダー、又は支配者?)は他者との話し合いに細心の注意を払う必要(義務)があるともいえそうですね。あっしらさんは以前特定のタイプの方、冷静な話し合いが出来ず自分の意見を押し付ける方には政治指導者にはなってもらいたくないと言っておられましたが、こういう理由でいいのでしょうか?
ただこのことは逆に言えば、支配ー被支配の間で双方向的な話し合いが成されていれば「支配ー被支配」の構図は分裂(意識)を醸成するとは言い切れないのではないでしょうか。老子の「人は本来何らかの規定や強制がなくとも他者や自然と調和しながら生きていくもの」という言が仮に真実だとしても”役割”の違い程度のものはあると思うのですが。この辺はどうなのでしょう?
(「支配ー被支配(主ー客)」間の分裂は意識の上では起こりうるとしても、一揆や選挙などで被支配の側が支配の側に働きかけることもあるので完全な分裂は起こらぬものとして、「分裂(意識)」と書かせていただきました。)
ではまた。