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(回答先: 「近代経済システム」の3特性を中心に... 投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 18 日 19:21:22)
あっしらさんの驚速、的確なレスには脱帽します。
>ヨーロッパの「超自我」や「アメリカ的正義」、そして、スピノザ的「光学的
>効果」について、新しいスレッドで展開していただけることを強く期待しています
「第三の男」のメタファーは「固有名」=「倫理性」あるいはアダム・スミスの言う「シンパシー」という連想から突然思いついたものです。ご期待のような論点になるかは
判りませんが....叩かれ台ということで考えます。
>「近代経済システム」は「国際金融家=国際商人が貨幣的富を極大化するために
>構築したもの」と言ってしまうのは、あまりにも、と思ったのでイメージしやす
>い制度的実体を取り上げたとご理解ください。
アプローチに難渋して確信犯的に「揚げ足取り」を試みました。実体主義も関係主義
も2項対立の「なかよしこよし」ですからこだわりはありません。
あっしらさんに倣ったわけではありませんが三点ほどにまとめました。
>近代資本主義が利潤獲得を動因とし、「利潤の真の源泉が外部共同体(国家)
>から貨幣的富を余剰として得ることにある」のなら、重商主義こそが近代資本
>主義の奥義です。
あえて言い方にこだわれば「どこから利潤が上がろうと問題ではない」というのが
柄谷=岩井的言説の核心でもあり基本的に同意しますが、その事と「出来事」と
しての29年世界恐慌とどう結びつくかです。マルクスが見ていた恐慌は商品恐慌
でありオランダのチューリップ恐慌などのように重商主義時代(一般的な歴史区分)
にも散見されるものであろうと思います。これはある意味で資本制生産の「健全な」
あらわれでありシュンぺーター的な破壊的創造?を伴うものであってなんら「危機」
ではなかったはずです。(確か機械の物理的な耐与年数と相関があったように思います。)29年恐慌は世界的な金融(信用)恐慌であり、重商主義(前出)時代には、
かつてないものであったということです。もちろん歴史の一回性、不可逆性から二度
と同じ事が起きるわけがないのは承知しています。私は恐慌待機論者(笑)ではあり
ませんが、29年恐慌に対するカウンター(対抗)としての30年代的な世界という
フレームにこだわるからです。ニューディルもそうですしナチズムもしかり、我が
日本における統制経済の傾斜も同様に「暴れ馬に轡をはめようと」するものでは
なかったかと思います。「借地人法」(最近改正?されたはず)「生産者米価奨励金」
にみられる「弱者、小作農救済」の社会厚生政策を推進したのがマルクス主義の洗礼
受けた「革新官僚」達であり、実は彼らにそう思わしめ脅威を感じさせたのがソビエト
ロシアの「経済的成功」ではないのかということです。ソビエトが鎖国して完結した
経済体制だったなどという気はありませんが、29年恐慌のダメージを直接受けた
わけででしょう。別スレのアーレントとアメリカ革命の話ではありませんがこの
「経済的成功」がクラーク(富農)からの収奪による原的蓄積(有名なユダヤ人の
政商達が介在したことは『公史』も残されていますが)それ以上にロシアという
「固有名」なしには成立しなかったのは間違いないと思います。カウンターとして
の30年代と言ったときケインズという「固有名」もはずすことが出来ません。
もちろんあっしらさんのある意味で「原理論的構え」にたいして個別的事実、あるい
は私の好きな「共時的構造」をぶつけるのは卑怯千万、悪無限的できりがありません
。しかし血の巡りが悪いのかようやく気がついたのですが、そうした原理論的構えか
ら「出来事性、偶然性」が消去されているように思えてならないわけです。「ポスト
・モダニスト」の悲しい性(さが)で体系というと崩したくなる(笑)跳ね返されて
も跳ね返されても飛びつくのかもしれません。「脱・構築」とは大変な意訳で
dis-constraction=破壊に他ならないのですから。
>『資本論』の理論的「破綻」要因は、剰余価値説にあると思っています。
虎の尾を踏む話なのでできるだけあっさりと。剰余価値説=労働価値説でよろしいで
すよね。この辺は岩井の「貨幣論」から引いていますが労働価値説についてはマルク
スのオリジナルではありません。あっしらさんが前記事で書かれておられましたがス
ミス-->リカードの流れであり、極めて「実体主義」的なものです。(リカードはつ
じつまが合わなくなるとあっさり捨てていますが)これに対してベイリーは「関係主
義」というか価値をある構造として見ているわけです。実は物の本(もちろん私が読
んだものに限られますが)に書いてある労働価値(価値形態論)はほとんどこの2つ
かその焼き直しです。リカードの言説をマルクスの主張と言っているしもっと酷いのは「マルクスはリカードの実体論を関係主義的に批判した」とかめちゃくちゃです。
マルクスはこの対立を「脱・構築」するというかカント的に吟味するわけですが、
それは時間性に係わる話だと思います。リカードはモノが出来た時点で価値を内在
しているといい、ベイリーは市場に投入され他の商品と対置された、その関係が
価値だというわけです。両者に共通するのは「実際には売れていないのに売れ
たことにする」決済の先送りです。「商品はお客様に買っていただいてナンボ」
です。宇野弘蔵は「売り手の困難性」を言いますがあくまでも統計的な困難性です。
(価格をさげて何度も市場に投入するのも含め)マルクスの考えた困難性は
「全く売れないかもしれない」という不可能性を含んでいます。(西原理恵子の
マンガ「毎日かあさん」に景品でシシローストラップ(小泉グッズ)をもらった
サイバラが「今どきこんなもん 自民党許すまじ!」と絶叫しますが、確かに金
を付けても持ってきませんね。)
労働価値はある。しかしそれは売り/買いの「命がけの飛躍」が成功した
ときに「事後的」に実現される、と言うわけです。資本論冒頭の有名な価値形態論で
すが10エレの亜麻布と1着の上着がどうたらこうたらという「単純な、個別的な、
偶然的な価値形態」ですが、私はこれを読んでもさっぱり判らなかった。元々数学的
なマルクスの言う抽象力が弱い(というのは文章見ても判りますが)のですが。要は
「お約束」に素直に従えないのです。円錐の頂点は「座標=点」ですが、大きさも広
がりもないものが何故立体の一部なのか納得がいきません。(幾何学を座標に置き換
えたのはデカルトの所業らしいですが。)上記の価値形態は10X=Yという式で形式化
されます。しかし「誰が、どうやって」あるいは「どういう理由で」式が成り立つの
かは説明されていません。(金子勝は「市場にはルールとレフェリーが必要だ」と言
いますが何処でルールを決めて誰がレフェリーになるかということです。)つまりた
またま亜麻布を所持し上着を欲する人間と逆の立場の人間が出会って交換が成立した
という「出来事性、偶然性」以外根拠がないわけです。これは市場に投入される人数
を増やしても変わりません。(この辺の話しは近代経済学でも吟味されているので切
り上げますが、岩井克人はもともと新古典派ですが「神の見えざる手はなにか考察し
てきましたが、結局判りませんでした。ごめんなさい」といって今は作家として「泉
鏡花賞」を取ったはずです。)問題はマルクス、マルクスと書いていますがあくまで
も柄谷行人が言ったマルクスでマルクスなのか柄谷なのかよく分からない所です。柄
谷が資本論を「脱・構築」したわけです。あと決済の先送りは「貨幣」を避けて通れ
ませんが、それを始めると底なしで私でどうなる話ではなくなります。話だけ振って
と怒られるかもしれませんが「こんな見方もある。」という風にご理解いただけたら
、さいわいです。
>マルクス自身も、それがまやかしだと思っていたと勝手に推測しています(笑)
固く信じていたはずです。アダム・スミス的に
>「“外的”世界には意味も目的もない」が、「人やその有機的結合である関係的
>活動主体は意味や目的を見つける」と考えています。
カント的に言えば自然には目的はないが、そこに合目的性を想定して良いと言う意
味で深く同意します。サプライム--宗教の問題についても書きたかったのですが余力
がありません。別の機会に.....