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(回答先: Re: 哲学と社会学の境界 投稿者 縄文ビト 日時 2004 年 6 月 09 日 07:48:03)
縄文ビトさん、早速のレスをありがとうございます。
この阿修羅掲示板が政策決定と云わないまでも何らかの合意形成や意思決定を行おうとする場(情況)とするならば、抽象論を排するべきでしょう。しかし、そうではない阿修羅のコンセプトに照らしてみれば、アナロジーをメタファーで代替することはレトリックの一つとして許されているものと解釈しています。
さて、発言録の要約メモを俎上に乗せての議論は固より限界性のあるものと推量し、よって、メモの個々のアジェンダにしたがって逐一コメントすることは無益と判断しています。
そこで、ご相談ですが、これより先も宮台論を継続する場合は、共通のテキストを基本に進めたいと考えますが、如何でしょうか。その場合は宮台真司著『自由な新世紀・不自由なあなた』を推薦いたします。
あるいは、縄文ビトさんが推薦されるテキストを基に双方の認識を確認するという作業から始めることであっても、些かも異存はありません。なるべく入手可能なものをご推挙いただければありがたいです。
何れを選択することになるのか、縄文ビトさんのお気に召すままに委ねたいと考えていますので、宜しくお願いいたします。
余談ですが、『方法叙説』における方法的懐疑の代名詞である[cogito, ergo sum](我思うゆえに我あり)は、普遍的命題から特殊命題を導き出す場合の主体(意識的自我)の明晰性(確実性)を叙述しょうとしたもの、すなわち演繹にかかわる定立の根拠を証明しようとしたものです。それは近代合理主義の萌芽と思しき様相を示したのですが、結局は『省察』で“はじめに言葉ありき”と円環することになります。
また、お会いしましょう。