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(回答先: 論敵に対する人格非難・態度非難は論争における敗北宣言 投稿者 たけ(tk) 日時 2004 年 5 月 16 日 14:47:03)
真剣で批判的な討論というのはいつにあっても困難なものである。人格的な問題のような合理性を欠いた人間的要素がつねに入りこんでくる。合理的な、つまり批判的な討論の参加者の多くがとくに困難に感じるのは、本能が命じているように見えること、(そして、論争的な社会ではどこでも結果的に教えられること)つまり勝利することを忘れねばならないということである。学ばねばならないことは、論争における勝利にはなんの価値もなく、他方、問題をほんのわずか明晰にすることですら──自分自身の立場や反対者の立場についてのより明晰な理解に向けてなされたほんの些細な貢献ですら──大きな成功だということである。ある討論において勝利を得ても、みずからの精神が変化したり明晰になったりすることがどうみてもほとんどないのであれば、その討論はまったくの無駄とみなすべきなのである。まさにこの理由のゆえに、みずからの立場の変更は内密になされてはならず、その変更がつねに強調され、その帰結が探求されるべきなのである。
この意味での合理的な討論は稀である。しかしそれは重要な理想であり、われわれはそれを享受することを学べるのである。これはなにも改宗などを目的とはしていない。その期待しているところは慎ましやかなものである。われわれが物事を新しい光のもとで見ることができるようになったとか、真理に少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分なのである。
(カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究会訳〕、未來社、1998年、pp. 88-89
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