現在地 HOME > 掲示板 > 議論17 > 764.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
“素朴な現実主義”とでも言えるマザーボード
このサイトで議論をしている優秀な人々は、やはり、現実的であることを好み、特定の観念的な方向性を好まないと、思っています。これは、そもそも、日本社会のありかたにさえ、関わるようなこと、と言えないでしょうか?
我々、日本社会の基盤的なものの見方を、現在の計算機と類推すれば、“素朴な現実主義”と言えるようなマザーボードに、行きつくような気がします。このマザーボードに、いろいろな思想、組織運用、などの、ボードを突き刺した形で、日本が動いている感じです。
一方、他の社会では、マザーボードは、どちらかというと、ある宗教を基盤とするようなボードだという感じです。“素朴な現実主義”は、むしろ、この宗教を基盤とするボードに、突き刺さっているため、素朴な現実主義は、細々としているのではないかと思います。だから、このマザーボードの変更に関わる展開は、他の社会では、容易ではありません。
我々のマザーボードは、けっこう、柔軟で、基本的には、不可知論とでもいう、開き直った“明るさ”を、そなえているのだと思います。だからこそ、例えば、黒船が来たのち、数十年後には、日清戦争まで始めることが、可能だったのではないでしょうか?つまり、マザーボードにも、強力な影響は及ぶのですが、“素朴な現実主義”(“負けるのでは、しょうがない”ではないか、と。)のおかげで、近代化という新しいボードを作り、そのボードを突き刺して、まっしぐらに進んだと思います。
現代にあっても、大半の日本人は、12月暮れには、クリスマスパーティをやっても違和感がなく、大晦日には、除夜の鐘におもい、明けてお宮に初詣にいけるのです。これで、困るどころか、大宗教、大思想をも、取りこんでいけるのです。意識はしていないかも知れませんが、かなりしっかりした、マザーボードを、持っているのではないでしょうか?
このマザーボードは、聖徳太子、聖武天皇のころに、形作られたのではないでしょうか?なにしろ、仏教を、護国宗教として導入するとき、聖徳太子は、“和をもって、とおとしとなす”と言い、聖武天皇は、大仏殿を建立するときに、傍にお宮をたてて祈願した、と伝えられています。このとき、すでに、巨大ではあっても、ひとつのボードとして、仏教を扱っているように見えます。このあたり、タイやビルマの仏教導入、韓国による儒教の導入とは、質が異なるようです。
唐突ですが、我々の、この特異さを、鍛え上げることができれば、J宗教をマザーボードとするような社会をも、包み込むことが、可能となるのではないでしょうか?さらに、議論が飛躍しますが、1922年だったかの、アインシュタインの言葉を、予言に変えることが、可能となるのかもしれません。
反論、批判、共感、お願いします。