現在地 HOME > 掲示板 > 議論17 > 780.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: 日本のマザーボードについて 投稿者 2000/12/31 日時 2004 年 5 月 08 日 12:25:14)
2000/12/31 さん、ご返事、ありがとうございます。
あなたが言う、
>最も「凝り固まっていない人達」と
>解釈することが出来ます。
>よって中立的立場にもなりやすいでしょうし、もっと積極的な外交姿勢で臨むことにより
>世界秩序の回復に果たす役割は決して少なくないと考えております。
この点、大いに賛成です。“凝り固まらない”こと、これをむしろ、発達させられないか?
というのが、私の問題意識です。
ところで、日本と他の社会の、と比較するとき、相対的に言えば、ということが、
ほとんどです。しかし、どうも、ここだけは、違う、と思えることがありますので、
それを、書きます。
日本の場合、大半は、少し悪く言えば(?)御利益宗教、つまり、自分が中心で
外に助けを求める、となります。しかし、キリスト圏の、いろいろな人と話して
分かったのですが、どうも、神は自分に何をさせたいの、という意識の方向が
備わっている、と思えることです。これは、私の主観的な経験ですが、私の周りにも、
似たことを言っている人がいます。どうも、神、あるいは、他社と、自分との関係に
おいて、日本人とキリスト圏の人々の間では、方向が違うような気がします、と。
次に、他のアジア圏と日本とを比べると、非常に大きな差があります。それは、
まず、典型的な封建制をとったのは、アジアでは日本だけ、ということです。(この背景に、
現実的な判断をしていった先祖を見ることができるような気がします。つまり、
毎日田畑を管理する者が、上から言われなくても、田畑を管理するのだ、的な。)
さらに、国王と天皇とが、異なる面が大きいことです。国王は、代わった
ことがあります。天皇は、古代において、代わったと言われますが、歴史上、変わって
いません。藤原氏が、当時、“わが世をば 、、、、”と歌ったのですから、代われた
はずでした。源氏になって、他の社会だったら、国王に、なっていたでしょう。
代わらなかったのです。(ここに、私は、聖徳太子や、聖武天皇、のみならず、豪族
たちによる、統治するときの、現実的な妥協をする考え方が、継続したのでは
ないか、と見るのです。)
さて、
>あらゆる社会(共同体)のマザーボードは「そこでのみ普遍的に通用する倫理道徳的
>価値基準」である
という考えには、賛成します。そこで、このボードに、どちらかといえば、一定の宗教が極めて大きく入りこんでいて、その度合いが、相対的に、日本より他の社会では大きいのではないか、と言ったほうが、いいかもしれません。
次に、
>全ては個が自己の都合のいいようにその場を利用し、提供する側も、神社ですら御神籤
>絵馬等全て有料です。バレンタインデーが業界の作り出した架空のストーリーで「愛の告>白」を
>提供する手段として消費活動を創出し、ホワイトデーに至っては本来意味すらないですね。
>でも、それに乗っかっているのが他ならぬ日本人である私達です。そういう意味では
>他のどの社会にも見られない「日本独自の通年行事」とでも申しましょうか。
ですが、ここに、神、(他社)、と、自分との方向に違いを見出すのですが。あなたが言うように、個が自己の都合のいいように、なんです。
一方で、ユダヤ系の人々と話して感じることは、彼らは、他社への考え方は異なっても、
他社がある感じです(無神論的であっても他社が、あるいは、聖書に書かれたことは
信じないけれど、他社が)。
こういうことで、たとえとして、日本の場合の、マザーボードは、自分(自分達)の
生活的なレベルを基盤としたようなもの、それが続いているのではないか、と、
考えているわけです。弥生時代的な呪術的な見方も存続させ(道祖神のようになって)、
同時に、仏教にせよ、神道にせよ、マザーボードに突き刺した、大きなボード、
というイメージとなるわけです。
また、議論させてください。
お願いします。