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(回答先: 簡単にですが... 投稿者 あっしら 日時 2004 年 5 月 02 日 03:52:02)
<客体化できることから、「私」の物的存在性を信じています。>
私がいうのは、(力)の外部への客体化(投影)です。
これが「物的存在性」の根拠にはなりません。
<実態(かたち)がないものとも書いているように、宇宙(世界)が物的論理で動いているとは思っていません。それ以上については自分にとって不明です。>
「不明」とは?
物的論理で動いていないものが、はたしてどんな論理で?
それがもし「不明」なのなら、あなたの全推論は無根拠という事になりますが。
こんなに大切な事を放置したままで、貴殿はなにを訴えようというのでしょうか。
<「歴史は現在である」という考えと、<<ニーチェの「過去を意志する」>>という考えは、両立不可能です。勿論一方が一方を含意することも。
<それを含意していないわけではありませんが、・・・過去の“不在”です。過去は、生身の人たちの現在にのみ解釈(物語)として存在するものと考えています。>
この考えは単独では理解可能ですが、「過去を意志する」ニーチェの思想とは相容れないものです。
<<財貨(力)を事実上無限に蓄積することが可能になった事態。
言い換えれば、人は「神」になれるのだ。ということにある集団が気付き、それを実
行しようとしている事態。と言えると思います。資本の力、論理に人間らしさという
価値の全てを売り渡した全く新しい「人」の出現。>>
ではなく
<「資本の論理に規定されて、財貨(力)を無限に蓄積することができないことがわかってきた事態」だと思っています。ですから、人は「神」なれるはずもないこと、資本に人間らしさを売り渡してもロクな代償が得られないことを理解する新しい「人」が徐々に増えてくると見ています。>
ということについて、なにか根拠となるものか、実例としてあげられるものを示していただけませんか?
私には論点先取りの誤謬に見えます。