現在地 HOME > 掲示板 > 議論17 > 587.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: コメントしていただける部分だけで結構です。なにとぞお答えを。 投稿者 宮本浩樹 日時 2004 年 5 月 02 日 02:54:19)
>「私」は物的存在ではないと主張しています。
>食物摂取と排泄の中間に起こるエネルギーの渦巻き、のようなものをイメージしてい
>ます。
>この渦巻きをまきおこしている力。(あくまで述語的に)この同じ力が、宇宙を、
>我々の目の前にこうやって立ち上げている。と考えます。
>「宇宙原理」にしても「自然法則」にしても自由な選択はあり得ないと思います。
>もしも、「存在」「実在」と言うべきものを人間が仮定、仮設できるとすれば、それ
>は、この「一切全て」の全体以外に選択の余地はない。というのが持論です。
客体化できることから、「私」の物的存在性を信じています。
「「私」という物的存在は、私が創ったわけがなく、両親が創ったとも言えないわけですから、なんらかの“こと”が「私」を創ったことになります」と、なんらかの“こと”が書いたり、「それが「神」なのか「宇宙原理」なのか「自然法則」なのかはわかりませんし、そのいずれであっても実態(かたち)がないものですから自由に選択すればいいと思っています」と、実態(かたち)がないものとも書いているように、宇宙(世界)が物的論理で動いているとは思っていません。
それ以上については自分にとって不明です。
>>「歴史は現在である」という考えをしています。
>ニーチェの「過去を意志する」という考え方とみてよろしいでしょうか。
それを含意していないわけではありませんが、単純にひとの認識の現在性と考えていただければけっこうです。
過去の“不在”です。過去は、生身の人たちの現在にのみ解釈(物語)として存在するものと考えています。
>「自己客体化」の劇的な進展、と言った方がいいでしょうか。
>いま起こっている事は、財貨(力)を事実上無限に蓄積することが可能になった事態。
>言い換えれば、人は「神」になれるのだ。ということにある集団が気付き、それを実
>行しようとしている事態。と言えると思います。資本の力、論理に人間らしさという
>価値の全てを売り渡した全く新しい「人」の出現。と見ます。
生産手段の高度化膨大化は、「自己客体化」の大いなる進展と言えます。
「いま起こっている事は、財貨(力)を事実上無限に蓄積することが可能になった事態」というより、「資本の論理に規定されて、財貨(力)を無限に蓄積することができないことがわかってきた事態」だと思っています。
ですから、人は「神」なれるはずもないこと、資本に人間らしさを売り渡してもロクな代償が得られないことを理解する新しい「人」が徐々に増えてくると見ています。
>急に人道主義者に豹変するつもりは有りませんが、キリスト教の名の下に行われた全
>世界、全歴史上での虐殺行為によって死んでいった人たちの魂にむち打ちたくないの
>で「称賛」に同意するのは控えます。
それもあって「称賛」です。あいつらの手段化能力の高さと下劣さをない交ぜにした揶揄だとご理解ください。
>井筒氏訳の「コーラン」だけをたよりにこのような自説を作り上げ、ムスリムの友人
>達と幾度も議論を戦わせた経験がありますが、大都会の世俗にまみれた人間はともか
>く、大多数は「コーラン」を再解釈する。と言った時点で険悪なムードになり、延々
>お説教が始まるというパターンでした。
コーラン自体をあれこれ再解釈するよりも、現実の出来事や在り様をコーランに依拠してどう評価するのかという道筋のほうが軋轢を生じさせないはずです。
それは、自然とコーランの再解釈につながるものです。
イスラム法学者はそのような役割を担う存在ですが、非ムスリムが口を挟めば否応なく険悪なムードになるでしょう。