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(回答先: Re: 補足 投稿者 鼻曲がり 日時 2004 年 4 月 29 日 13:18:57)
私は基本的に宗教にも哲学にもあまり興味は無いのです。トルストイの人生論でしたっけ?あれ読もうとして挫折しました〈笑)受付けないみたいです。
まあ私のあくまで私見ですが、その宗教も人間の性=悪〈本能)を認めてるいるよと言いたかっただけのことです。
人間の性=善説を唱える宗教は、善だと思い込ませる宗教だという見解にたっています。
例えば善説を唱える儒教ですが、とん(漢字がでない)という怪物を使って人間の本能を表現し、理性で抑えなければ最後にはすべてを食べ尽くし無になると説いています。
つまり、悪魔やとんと表現することによって、それらが人間の中にあってはならない〈実際にはあるのだが)と説いているのです。
自分が世界を滅ぼす悪魔や怪物とは思いたくないでしょう?そこに人間の性=善と説くと、スポっとその教えにはまっていくのです。
私は動物学的に説明しようとしたのですが、その反証として宗教を持ち出した、というわけです〈笑)。
いや、善悪論をしたいわけではないのです。悪という本能を善という理性が抑えこんでいる、つまり根底として本能があり、教育などで作られた理性があるということです。
もう少し突き詰めると、本能=悪ではないのです。それが自然の摂理なのですから。
例えば動物を殺して食べるのも本能、自分の子供を愛するのも本能ということです。
教育が作った理性が、「殺す」だけをとらえて「悪」といっているだけなのです。それが人間という動物なのでしょう。
不適切かもしれませんが「必要悪」という表現を使った理由です。
ドストエフスキーの「虐げられた愛」はよかったなぁ。すばらしい「教育」ではないですか!
ああいう、哲学でも解りやすいのがいいなぁ!私の論も解りやすさを目差しています。
タイトル「なるほど!」の論で、愛を説く宗教が、その愛を否定されるとどうなるか・・・そのパラドックスが宗教の不完全さの象徴であり、宗教紛争の最大の原因になっているのです。
それを私は否定しませんよ。なぜなら愛を説く宗教者も人間なのですから〈笑)。
人間とは必要悪を根底に持つ不完全なものであることを認め、完全を目差すよりは、いかにその不完全を補うかが大事なのでは?と思います。
完全を目差すことは「死」を意味することであることをご理解下さい。
呼吸もせず食事もせず生きていけますか?しかし必要最低限に抑えることは出来るではありませんか?
死にたくはないでしょう?生存を欲求するところから自我「エゴ」は始まるのです。「エゴ」が存在するゆえに「エゴ」と「エゴ」は衝突することもあるのです。生きる=必要悪なのです。
完全を目差し、「エゴ」をなくせる、と説くのならば、まずあなたが死ななければならないのです。理由無き自殺をする中学生とかいるでしょう?ここにたどり着いたからではないでしょうか?
この世に生を受けたことを喜んでください。あなたの存在は必要悪かもしれませんが、その必要悪を無くすことは出来ませんが(死を意味する)抑える力をあなたは持っているのです。そして他者の必要悪を抑える力をもあなたは持っているのです。使っていないだけです。嘆いている場合ではありません。
なによりこの世に生を受けた奇跡に感謝しましょう。ここにのみ神の存在を認めます。必要悪が発生しますがエンジョイしましょうよ!それが神の奇跡に感謝することなのですから。
つまり神は、あなたの存在=必要悪=人間の本能を認めているではありませんか!。
なんてな〈笑)私なりに皆さんの意見を取捨択一するとこうなります〈笑)しかし疲れた〈爆笑)