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(回答先: Re: 私見 投稿者 鼻曲がり 日時 2004 年 4 月 29 日 14:26:34)
鼻曲がりさん レスありがとうございます。
残りのレスを待とうかとも思いましたが、いただいたものに対しお返し致します。
>1としては「覚醒」ということになりますが、その前に私が無神論の理由と
>いたしましては、万物の創造主としての「神」を、万物を創造したのは神ではなく
>自然であるということと、私の死後「魂」となって存在するのかということです。
このご認識は共感できる側面とそうでない側面を併せ持っております。
私は「万物の創造主=超自然≠神」という認識かつ「魂の永続性」があるという立場にあります。
>先ほど白亜さんにもメールをいたしましたがデカルトのコギト
>「我思うゆえに我存在す」を逆に言えば「我思わないゆえに我存在無し)という
>いとことになるかと思います。つまり「死」によって脳が破壊され、
>私の存在自体もそこでなくなるということです。
>ある宗教では「生命は宇宙とともに存在し後でもなければ先でもない」このことを
>教理の原点にすえていましたが。私が言えることはこの言葉には「個」としての
>私自身の存在は無いということです。つまり「個別性」が無くなるいうことです。
>「個別性」を持たせるには「魂」となって存在しなくてはならないということです。
ということはあなたは「ある宗教」を肯定されているということと受け止められます。
>ほとんどの人が自身の死を考えたとき、自己を「死」の側に置き、
>周りの人が悲しむ姿を想像するのではないでしょうか。
>「死」の後に魂として存在しなかったときにはそんなことはありえないわけです。
>つまり脳の破壊とともに一切が無くなるということですから。
これは逆のような気が致しますが。自分がいなくなった後のことなど
想像できるはずはありません。従って「実体験として親しい人を失った」感覚の
裏返しでシミュレーションするしかないだけと考えられます。
>これから「覚醒」にはいります。その前に人間はなぜ暗示に弱いのかということです。
>「覚醒」イコール自己催眠ではないのですか。
表現上の問題です。私は「意識レベルの変容」=「覚醒」とこの議論の中で定義づけました。
>自身をある暗示によって隠された能力を呼び覚ます。これはマラソンなり
>あらゆる運動選手が取っている方法です。つまり自己の隠された能力を
>出すために自己催眠をかけるわけです。自分の能力がもっと上にあるということを
>イメージングしていくわけです。
仰る通りそのような意味合いにおける「覚醒」もあるでしょう。それに即せば
私の申し上げたい「覚醒」とは「利己」から「利他」への「意識レベルの高揚」を
意味します。そこに「自己催眠」なるものは介在しません。それ故より
自発的な「意識改革」ということになります。
>これがなぜ人間の能力の中にあるのかということになりますと。
>それは生物が進化する原動力になったものだと考えます。
>私自身は進化の原動力は他の動物の餌になることから逃れるためと考えています。
>ガラバコスを見れば他の生物から脅かされないということで進化は止まっています。
>オーストラリアのコアラなどもその例かと考えます。
> 現在の社会はあらゆるストレスがあります。でも人間は進化の元となる
>不安があっても進化することはできません(進化は遺伝子レベルのことですから)
>そこで残された方法は自己催眠だけということになるようです。
仰る意味は理解できます。しかしながら、「自己催眠」のみが進化の手段と
限定できるでしょうか?
仰る「自己催眠」により「他者へ勝る能力」を手に入れた人間が「人間」として
進化したと言い切れるでしょうか?私にはよりシビアで救いのない「競争」
「他者を打ち負かそうとする意識」が増長するだけであると思えます。