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(回答先: 面白く拝読しました。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 28 日 23:55:39)
>「神」の存在自体を肯定も否定もしない(できない)という考えですから、「神」が全知全能であるかや造物>主であるかも同じです。
「神」が文法的に主語を要請する言語体系に必然的に現れる便宜的な「it」と考えている旨、言葉足らずでした。
>「私」という物的存在は、私が創ったわけがなく、両親が創ったとも言えないわけですから、なんらかの“こ
>と”が「私」を創ったことになります。
>それが「神」なのか「宇宙原理」なのか「自然法則」なのかはわかりませんし、そのいずれであっても実態>(かたち)がないものですから自由に選択すればいいと思っています。
「私」は物的存在ではないと主張しています。
食物摂取と排泄の中間に起こるエネルギーの渦巻き、のようなものをイメージしています。
この渦巻きをまきおこしている力。(あくまで述語的に)この同じ力が、宇宙を、我々の目の前にこうやって立ち上げている。と考えます。
「宇宙原理」にしても「自然法則」にしても自由な選択はあり得ないと思います。
もしも、「存在」「実在」と言うべきものを人間が仮定、仮設できるとすれば、それは、この「一切全て」の全体以外に選択の余地はない。というのが持論です。
>「歴史は現在である」という考えをしています。
ニーチェの「過去を意志する」という考え方とみてよろしいでしょうか。
>ひとの「自己客体化」は、動物という生き物性に由来していると思っています。
>猫が塀に飛び上がれるのも、程度はわかりませんが、「自己客体化」がなされているからだと...
「自己客体化」の劇的な進展、と言った方がいいでしょうか。
いま起こっている事は、財貨(力)を事実上無限に蓄積することが可能になった事態。言い換えれば、人は「神」になれるのだ。ということにある集団が気付き、それを実行しようとしている事態。と言えると思います。資本の力、論理に人間らしさという価値の全てを売り渡した全く新しい「人」の出現。と見ます。
>紀元前4世紀頃に同時多発的に現在に連なる宗教が生まれたのは、「財貨を目に見える形で外界に積み上げる>事が可能」になり、現在的な意味での支配―非支配の関係構造が確立されたからではないかと考えています。
>支配―非支配の関係構造が生じさせるであろう軋轢を無害化する手段の重要な一つが宗教だと思っています。
全く同意します。
ウインドウズのパッチ云々のたとえについては、コンピュータに関して素人なので、自信が有りません
>キリスト教“でっち上げ説”を採っているので、キリスト教の特性は「支配―非支配の関係構造が生じさせるであ>ろう軋轢を無害化する手段」として理に叶っていると思っています。
通説を尊重しようという俗物根性が残っているせいか、「でっちあげ説」までおよびませんでした。
「どぎつい事を書くお方だ(笑)」
>ユダヤ教―イスラムの「戒律主義」に対するキリスト教の「博愛主義」は、被支配者をみごとに奴隷精神化す>る手法だと“称賛”しています(笑)
急に人道主義者に豹変するつもりは有りませんが、キリスト教の名の下に行われた全世界、全歴史上での虐殺行為によって死んでいった人たちの魂にむち打ちたくないので「称賛」に同意するのは控えます。
>コーランには統治形態に関する具体的な記述がないので、そのような説をふりかざしてもイスラム世界で生き>ていけるはず(イスラム原理主義的には)です。
井筒氏訳の「コーラン」だけをたよりにこのような自説を作り上げ、ムスリムの友人達と幾度も議論を戦わせた経験がありますが、大都会の世俗にまみれた人間はともかく、大多数は「コーラン」を再解釈する。と言った時点で険悪なムードになり、延々お説教が始まるというパターンでした。
まあ、いまの日本で「シンセンミン」のまっただ中で生きるのとどっちがいいか?考えてしまいます。
お会い出来たことを嬉しく思っています。
これからもよろしくお願いします。