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(回答先: Re: 反論してほしいんですよ(笑) 投稿者 白亜 日時 2004 年 4 月 27 日 07:20:52)
白亜さんの、疑問にお答えできるかどうかは、非常に難しいですが、私の考えです。
>まず「覚醒」ですが、そのようなことが本当に可能性があるのでしょうか?
>確かに頭の中では、すべての人が「共済」や「協調」を身につけることが
>出来ることを想像し得ます。宗教が説いているのもそうゆうことでしょう。
>しかし可能性が無い「思想」は「夢想」ではないでしょうか?儒教の祖孔子
>は「人間の性=善」説を説いていますが、秦の始皇帝は「人間の性=悪」説を
>説いています。
白亜さんの言うとおり、究極の問題であり、疑問であると私も思います。
自己犠牲する心も、利己主義的な心もつきつめると「自己愛」からくるものであり、その「自己愛」が一般的に高貴な考え(=善といわれるもの)か、自己中心的な考え(=悪といわれるもの)かというところからきていると思います。
悪かどうかは別として、人間とは自己中心的な考えをすることが普通の本能であり、それを自己犠牲せよと言うことは、難しいものです。
自己犠牲するには、なんらかの見返り(報酬)を期待するのが一般的であり、その見返りがなんなのかというところを説く(理論的に)ことができれば、瞬く間にすべての人が「共済」や「協調」を身につけ、戦争や紛争を回避することが出来るとものと思います。
では、現在、自己犠牲を実行している方(ボランティア等)の期待する、見返り(報酬)とはなにか。
ある者は純粋にその高貴な活動をする自分を褒め称え喜びを感じたい、または、自分がした悪い行いをフォローする為の自分を納得させる行為であるという者もいるでしょう、または輪廻転生を信じ、死後若しくは来世への自己のレベルアップをと考える者もいるでしょう。
ただ、それらが見返りであるから、実行しなさいと言っても、人にはそれぞれの価値観が存在し、また現在の人間レベルでわからないこと(輪廻転生等)は、理論的に説明することは不可能にちかいです。
また宗教的には、人間は悪であると説くし、善であると説く宗教もある。
しかし、善といわれることも悪といわれることもどちらも神様は作った。
善ばかりでは善ではないし、悪というものがあってこそはじめて善は成り立つ。だから2つあるのであり、2つとも正しいのであり、2つとも経験することにより、善も悪も味わうことができます。すなわちそこにある以上(神様が作った以上)、究極的には2つとも正しい行いであるのだと私は思います。
だからと言って、このままでは大多数が本能のまま自己中心的に行動することは、「共済」や「協調」から大きくかけ離れ、現在の戦争や紛争をなくし、より良い(誰もが幸せである)という世界を追求するには、難しいものであります。
かといって話しを戻すと、それらを説得するだけの理論の確立は、不可能に近いです。
それこそ、非科学的ではありますが、多くの人間がなんらかの啓示等により進歩し、覚醒することを信じるしか手はありませんが、善も悪も正しいもの(在るもの)である以上、啓示が果たして有効なものなのか、本当に必要なものなのかどうか。
従って白亜さんの言われるとおり、すべての人が覚醒することは難しいかもしれません。しかし、いまより少しでも覚醒した者が増え、戦争や紛争が少しでも減ることを私は期待しています。
私や、多くのここに集う皆さんにとって戦争が起こってほしくはないし、誰にも苦痛を味わってほしくないという世界感があります。
善といわれるものも、悪といわれるものもある以上しかたがないが、皆の意識をたとえ変えることができなくても、またそれぞれの価値観の違う自己愛を尊重しながら、戦争を少なくし、貧富の格差を少なくしていく方法(妥協点)があると私も思います。
白亜さんや2000/12/31さんや他の皆さんが考えておられるように、その点を考えることがこの阿修羅において最も必要なことだと私も思っております。