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(回答先: Re: 反論してほしいんですよ(笑) 投稿者 白亜 日時 2004 年 4 月 27 日 07:20:52)
白亜さん こんにちは
>議論とは、意見を反証することによって正当性を見出すための処方と思っております。
ごめんなさい。私は「まず受け入れる」ことを前提に「認識の異なる部分」について
あなたの言われる「反証」あるいは「論破」を以って双方のベクトルを一致させることが
議論であると考えております。それはスタンスが全てにおいて真逆であってもです。
異なれば異なる程、「受け入れる姿勢=理解しようとする姿勢」を鮮明にしなければ
議論になり得ません。よって、単なる「反証」のみをお求めでしたら私にとっては
自己主張の押し売りになるだけので、これ以上の言及や議論は差し控えたいのですが。
>私は、現時点で私が知っている知識や思想によって私見を述べていますが、
>それが本当に正しいのか自信は無いのです。
それは私とて同じです。自信の有無・程度にどれほどの意味があるのでしょうか?
「どれだけ自信を深め、揺らぐことの無くなった私的見解」も、内的には「真実」で
ありこそすれ、外的・社会的には何ら影響力を持たない「一私見」に過ぎません。
重要なのは個々人が独立した「確固たる信念」を持つよりも、民主主義を標榜する
限りはより普遍的な価値観に基づく世論形成がなされ得るような判断基準の再構築に
あると考えております。
あなたや私の見解にある妥当性やステレオタイプ・バイアス・ミスリーディング等に
基づく誤認識は被るところとそうでないところがあるのですから
「反証」に徹することなく「補完」の上に立った議論がなされるべきではないでしょうか?
その結果が広く「共有」されることにより、「一私見」が「世論」にまで成長すると
考えます。が、日本の現状はそうではありません。思慮深さを欠いた「エゴイズム」の
塊のような「思想家」達による「煽動」に、思慮深さを欠いた多くの「国民」が
簡単に踊らされ、「世論なき世論」が政府を野放しにしているのが実態です。
極めて憂慮すべき事態です。ですから私は阿修羅の場を借りてその流れを変えたいと
思っております。
>ですから私見を論破されることにより「新しい見解」を得られれば、
>との思いから議論に参加させて戴いております。
私の参加目的は上述の通りです。あなたのスタンスはよく認識致しました。
>まず「覚醒」ですが、そのようなことが本当に可能性があるのでしょうか?
少なくとも私自身の意識レベルはその域にあるという自覚があります。
端的に申し上げれば、「全てをありのままに受け入れる」ことができます。
よって私の意識に「全否定」はありません。理解してもらえないと思いますが。
変人扱いしないでくださいね。私はあなたが仰ったように人間である以上「エゴ」が
なくなることはないと思います。しかし、私の中では「反証」=「エゴ」vs「エゴ」で
ある、よって少しでも「相手を受け入れる」ことがお互いに可能になれば
全ての対立は緩和・減少そして消滅に繋がると信じています。
全人類における唯一無二の価値観は「相手を思いやる心」であると考えています。
その他は違って当然であり、またその「多様性」こそが人類の人類たる所以なのです。
世界情勢の現状はこの「多様性」に対する米国の無謀な「画一化」の挑戦が齎した
人類として当然の闘いでしょう。「画一化」はがん細胞と同じでいずれは破綻します。
「フセインの悪政」「軍事的脅威」に託けた「中東民主化」は「多様性」を是とすれば
自ずと「あるべき姿」ではないことが理解できると思います。
>確かに頭の中では、すべての人が「共済」や「協調」を身につけることが
>出来ることを想像し得ます。宗教が説いているのもそうゆうことでしょう。
>しかし可能性が無い「思想」は「夢想」ではないでしょうか?
>儒教の祖孔子は「人間の性=善」説を説いていますが、秦の始皇帝は
>「人間の性=悪」説を説いています。
>可能性という言葉に具体性を持たせて戴かないかぎり、
>悪の性と上手に付き合っていくしかない、という見解に立っています。
>私もこのような見解に立たなければならないのは残念なのです。
>是非論破していただけることを願っております。
上述した通り自己認識と「人間として当たり前の価値観」に立脚して記述しました。
特別な論拠や客観的裏づけ等ありません。故に「ない」とも言い切れないのでは
ないでしょうか?引用された性善説や性悪説はどちらも的を得ています。
人間のみならず森羅万象には必ず両極があるからです。私は「善」になり切れとは
申し上げておりません。「善悪のバランス」を理性で制御し、ちょっと
「俺が俺が」を控えめにしましょうよ、と申し上げているだけです。
こんな簡単なこと(私にはそう思えます)ができていない人が実に多い。
よって「(人として)目覚めよ」と申し上げたのです。
>私は賢明ではない為、この様な場にて勉強させて戴いているのですが、
>ただ私の知る限りでは、イラク戦争やアフガン戦争は単発的なものではなく、
>要因をたどれば「パレスチナ・イスラエル建国問題」、
>「ユダヤ人虐待・ホロコースト」・・・と様々な問題が絡み合い、
>そしてさかのぼれば紀元前までいってしまう、竹を割るようにどちらが悪い、
>とは言えない複雑な問題なのです。
一応世界史を学んでおりますので根の深さは認識しております。
ご指摘の通りだと思いますよ。
>アメリカについて述べられていましたが、問題はイスラエル建国に
>アメリカが同意したことから始まっているように思えますが、
>国連も同意してしまっているのです。
>たしかにトルーマンがユダヤ富豪から政治資金を得ていた事実が
>あったかもしれません。しかし本当にそれだけでイスラエル建国を
>認めたのでしょうか?私には解りません。
仰る通り私にも何故「国連が建国を認めたか」の真相は解りかねます。
「様々な憶測」には確固たる論拠がないため発言は控えます。
>またテロによって報復されたのでは、アメリカは自国民を守るための
>「手段」をとらなければならないでしょう。911事件が自作自演だったとしても、
>それも「手段」と言えなくないのです。
それが「先制攻撃正当論」の論拠にはならないと思いますよ。
少なくともいつどこで「テロ」が起きてもおかしくありませんよね。
「テロ」への報復としての「アフガニスタン」攻撃は辛うじて理解できるにしても
「イラク」に攻撃を仕掛ける必然性はないと思いますが。
>私も軍需産業については同意見です。しかし反証を与えると、
>北朝鮮が攻めてきたとき、守る手段は今のところ日米安保における
>アメリカの軍事力しかなく、それを支えているのは軍需産業ではないでしょうか?
>当然アメリカ国民を守るための軍需産業でもあることはいうまでもありません。
ですから私は別の場で、日米安保の見直しと非武装化の両立の模索を
提言しています。軍需産業の潤いの一翼を日本が担っているからだけでは
ありません。米国の自衛としての国防に口を出す気はありませんが、
今回のイラク戦争と「米国石油企業+雇用創出」という図式にも見られるように
争いを国家経済振興の手段にする米国の姿勢は究極の「エゴイズム」です。
そこから脱却しない限り、日本は米国の属州という見方は払拭されないでしょう。
北朝鮮を異常なまでに脅威に捉える方がおられますが、
私はそうは捉えておりません。彼らが「ボタン」を本当に押すと思えますか?
「盲目的米国追従(それを是とした有権者にも問題はありますが)」が齎した
脅威:日本においていつどこで「テロ」が起きるかの方が遥かに切迫した問題だと
思います。
>ミクロとマクロは逆です。ミクロでみれば国家間の「エゴ」ですが、
>その背景には民族の様々な問題が潜んでいるのです。
それはミクロとマクロの視点の出発点があなたと私で異なるだけのことです。
>「個人的には半分ずつあげたいな」百人いたら百等分しますか?〈笑)
>確かに公平でしょう。でもだれも救われないでしょう?
極端な例を持ち出すのは不毛です。ほんの少しでも食べることができて
「つかの間だが幸せ」を感じる人もいるのでは?
要は「心の持ちよう」だと申し上げておきます。
救われる・救われない、「0 1」だけで物事は判断できません。
>「お金持ちになった=心から幸せになった」確かに違います。
>私がいいたいのは、今日の生活もままならない、明日に不安を抱いている人達に
>「心にゆとりを持て」といっても無理でしょう?生きるために必死なのですから。
皆人生に不安を抱いている点では同じです。不確実性の元で生きている以上
生活レベルの違いに関係はありません。極めて一部の人間を除き皆生きるのに
懸命です。では、その時点で「人間的な感性」は失われるのでしょうか?
全ては恨み・妬み・憎しみ・怒りといった負の感性に移行し得ると断言できますか?
「イラクの貧困極まりないストリートチルドレンと高藤さんとのふれあい」に
そうした負の感情が見受けられますか?「ストリートチルドレン」はその情愛に
「感謝」しているとしか私には思えません。それ故にボランティアやNGOの活動に
意義を見出している方がおられると思います。
>そこに紛争の一つの種があるといっているのです。
>自分の生を犠牲にしてまで他者を生かす・・・素晴らしいことです。
>しかし心にゆとりを持てない人達にその思想を求めるのは無理というものです。
以上を踏まえどうお感じになられても私はあなたを否定は致しません。
仰る通り貧困が原因の紛争は多々ありますから。
こういう考えの人間もいるという認識で結構です。
>このように見方を変えれば、「エゴ」と「エゴ」かもしれませんが
>「善」と「悪」ではないのです。まさに「バランス」と「落としどころ」なのです。
結論は全く同一です。異論はありません。
>もともとは共済というタイトルの内容が「愛」論に走りすぎていたための
>反駁でしたが、とても有意義でした。是非とも「おお〜!」と叫びたくなるような
>反論をお待ちしております〈笑)。
全然「おお〜!」じゃなくて恐縮ですが少しでもプラスになるものがあれは幸甚です。