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(回答先: 人質事件のポイント 投稿者 小阪修平 日時 2004 年 4 月 21 日 11:23:37)
三人の人質の過失を議論すると同時に、
政府の過失について論じなければいけませんね。
今後は、「今回の事件の本質は、政府の統治行為に対する重大な攻撃だった」と改めて問題設定を明確に意識し、被害者としての政府の行動を検証する必要があるように思います。
人質の安否を憂慮する憂慮に乗じて、反戦運動を盛り上げたり、自衛隊撤退論をあおったりする行動に対して政府関係者含め多くのひとがもったであろう不快感を説明するには、被害者としての政府という捉え方をきちっとしておく必要があるのではないかとおもうわけです。
今回の事件は「危ない地域をチョロチョロしてた日本人を救出しなければならなくなった事件」なのではなく、
【イラクの武装勢力が人質をとって政府の統治行為を脅かそうとした事件】なのです。
あたかも【不適切な行動をとった国民】と【指導する国親】といった国内の内部的関係において理解してうやむやにしていい事件ではないはず。
イラクという地域・人質という手段は、反米を基本的な動機とするテロの類型として考えれば必ずしも必然的な要素とはいえない。
むしろどこでも誰にでも起こりうる類型といわなければならない。
しかし、発生の蓋然性からいえば、準戦闘地域でそうした事件が起こりうる可能性は、後から考えれば非常に高かった。
したがって、結果的には、外務省の退避勧告は重要な意味をもっていたといえましょう。
後から考えればね。
ただ、本来、退避勧告が予期していた事態とは、邦人への危害そのものであって、退避勧告の目的も、国民の生命身体の保護のためのものであり、渡航者自らに危険が及ばないように注意を喚起する目的だったはずです。
それとは明らかに性質を異にする統治行為への侵害の危険性については、外務省は、別途注意を喚起する必要があった。
つまり、本来ならば、人質という手段で政府を脅迫する行為は、性質上、政府への危険行為なのだから、政府がそうした危険を回避するために国民にそのような予測可能性について、具体的に呼びかける必要があった。
政府に対する危険については、政府が注意すべき義務があったのではないか。
「自らの危険は自らが引き受けよ」という政府流の自己責任でいえばそうなるはずです。
かりに、犯行グループが「政府を脅しているだけだから人質には危害を加えるつもりはない、むしろ丁重にあつかう」という明確な意識をもっていたとするならば、なおさら人質三人の被害を議論するよりも、政府の被害を議論することの必要性を感じる。
勿論、三人の現実の心身の被害を軽視するという意味ではありません。
三人への危害は事件の本質とはいえないというだけです。
本質的には、第一に、統治行為への干渉を意図した事件なのであって、
第二に、それに乗じた日本の反体制的な勢力が勢いづいたことによって、政府や保守的な陣営が不快感をもったという事件として検証するべきではないでしょうか。
そのような見方を徹底すると、
まず、政府が聖職者協会をあたかも共犯者のごとくとらえ、人質解放に尽力したことに対して謝意を一切述べなかった政府(被害者)の動機が容易に理解できる。
三人が明確に反体制的な動機をもっていたことに対する政府(被害者)の過剰なイライラ感もまた、被害者の二次的な被害妄想として理解することもできる。
しかし、かりにそういう心理状態だとしても、日本政府(被害者)は、卑劣な手段による統治行為への干渉事件をもう少し分析的に理解する必要があった。
マスゴミや国民感情はテキトーでもいいかげんでもまぁしょうがないが、統治行為という重大な責務を担う政府首脳は、人質の安否を憂慮する憂慮に乗じて、いろいろあーだこーだと政治的発言をした国民までをも潜在的な共犯者のラベルを貼り付けて、それに対して不快感などをあらわにするといった態度をとるべきではなかった。
国民が時機をとらえてそのような政治的表現に走る可能性を謀反であるかのように捉えるのは妥当ではない。そうした情勢に乗じて政治的な表現をすることは何ら非難されるべき理由はない。誰の利益も侵害しない。公共の利益と対立するものでもなんでもない。単なる国民の政治的運動のひとつにすぎない。
いかに政府の弱みに付け込んだフェアでない表現活動であっても、政府の利益を直接侵害しない限り違法性はない。フェアプレイの精神など必要ない。むしろ野党はいかに弱みをつくかが政治活動のポイントでさえある。政府の利益が侵害されることは論理的にありえない。
政府首脳は、国益なんか知らん!救ってほしいだけだ!という素朴な言動にすらイラついていたように思える。しかし、国益を正確に論じなくとも、いわゆる表現の自由として保障されてしかるべきであり、政府が感じた不快感とは別個に評価しなければならない。
被害者たる政府は、しかし、そのような冷静な議論をする余裕がなかった。
本来ならば、在外邦人の救護は現地の主権をもつ当局に委託要請するのが筋なのに、政府がなんとかしないと殺すと脅迫されたばっかりに、邦人保護を強調する声が四方八方から降り注ぎ、夜も寝ないで人質の安否を心配し救出に全力を挙げなければいけない条理上の保護義務が生じてしまっていたからです。
ちなみに年間一千万人の海外渡航者のうち、毎年何十人も行方不明になって戻ってこないわけだけど、外務省は、そういう人たちを一件あたり20億円もかけて保護すべき義理はない。邦人保護には自ずから限界がある。
脅迫されて政府の作為義務が生じない限り。
政府が脅されたショックは大きかったに違いない。おろおろとしただろう。
初めての経験による余裕のなさとお上体質な報道があいまって、犯行によって生じた「安否を憂慮する憂慮」にさらに乗じる表現活動など卑劣極まりない!といった情緒的な気運を形成していったのかもしれない。(事件の数日後には、自衛隊撤退論を口に出そうものなら非国民のように扱われるムードが出来上がっていたことをもう少し検証する必要がある。)
しかし、今回、少なくとも、国の命運を左右する政府は、そうした気分を冷静に自己分析して受け止める合理的な態度がのぞまれたと思います。
その点、今回の政府の対応は、みそもクソも一緒くたにした混沌とした自己責任論(迷惑論)に象徴されるように、いつまでたっても終始情緒的なものであって、いまだに被害者感情むき出しの哀れな状態と言わざるを得ません。
いつまでたっても【不適切な行動をとった国民】と【指導する国親】といった国内的な事件として印象づけようとしているのがなによりの証拠です。
最後に、
費用請求事件についてひとこといえば、
行政の業務として行った範囲の支出なのか個人の支払うべき支出を立て替えた分なのかについて、ひとつも明確に示すことがない。迷惑料をにおわせつつ「費用を請求してやるからな」という意味のことをいい続けている閣僚の言動は、被害者関係者のみならず国民の表現の自由に重大な萎縮効果をもたらす結果を招いているといわざるを得ない。
これは表現行為への侵害として、文春差止めよりもはるかに深刻に受け止めなくてはいけない気がしている。
行政の不明確な言動は、国民の予測可能性を奪うものなのです。
行政府はそのことをわきまえて不明確な言動はぜひ謹んでいただきたいと感じます。
とりあえずこんなところで。