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(回答先: 人質・最初の三人と後の二人 投稿者 ZUMA 日時 2004 年 4 月 21 日 15:23:03)
最初の3人の人質事件のときの、同時に起きた護憲左翼・市民運動・社民・共産による
自衛隊撤退や小泉批判という尻馬平和デモなしでは、ここまでバッシングはなかった。
もし、露出が家族だけなら日本大衆の心情は政治的主張の如何にかかわらず
「家族だから、こういう緊急事態で極端なことを言っても仕方ないな」
ですんでいただろう。
そしてやがて彼らの苦しみに共感する感情が形成されたかもしれない。
それに乗じて露出してきた政治的なバックがあるから、それを利用したがっている
組織的な背後があるように見えたから、世論は沸騰したんだ。
日本はムラの倫理で生きている。
日本政治が真性の民主主義であろうとなかろうとムラにはムラの合意形成の心理的秩序があり、
護憲左翼はそれを人質事件を盾に取った強要というかたちで踏みにじり、
民衆の激しい怒りと反発を引き起こした。
結果、左翼たちはたのまれもしないのに、
政府の「テロには屈しない」という空文句に力を持たせてしまい、
もともと小泉政府に批判的な、あるいは自衛隊派遣反対の国民すらを、
自衛隊派遣賛成と小泉政府支持に無理やり押しやってしまった。
小泉首相・川口外相が人質と自衛隊撤退要求ジレンマに「困り果てた」ポーズをとったとき、
国民ははっきり首相と外相に感情移入し、彼らの側に立っていたんだ。
なぜそれが分からなかったのか。
秩序を乱され、困惑するムラの倫理に立つ同志として、政府と国民が一体化していた。
それをつうじて
「世間様にご迷惑おかけして」が「国策にご迷惑おかけして」に転化されるという
最悪の(権力にとっては願ってもない)パターンをつくってしまった。
日本的なムラの倫理がすべて遅れていて権力者への追従におわるとは限らない。
それを踏みにじるものは権力者に対してさえ矛先が向くという面もある。
護憲左翼が騒がなければ、人質解放の結末自体はたぶんは同じだっただろうが
むしろ国民は、家族と人質の姿だけを見て、
「市民の幸福であるはずの国益が、こんなふうに市民(人質や家族)
を苦しめているのは、倒錯ではないか。」
と思い至るはず。だがそう思うにはそれなりの時間と秩序がいるのだ。
護憲左翼がすべてをぶち壊しにした。
それはつまり、人質になったボランティア豪女性が
「ハワード首相の暴言のせいで苦境にあった」といい、
イタリア人人質家族の「首相の政策のせいでイタリア人は、アラブ人全部を敵に回した」
というコトバが政治的に鋭い力を持っているとは対照的に、
日本ではおろかな護憲左翼が人質家族の存在それ自体を全部、無意味な政治扇動にしてしまったんだ。
権力者はいま、
現代国家が市民国家の体裁を保つための大原則、国民のための政府という論理を守るための
邦人保護(市民権所有者保護)という法律的建前をかなぐり捨て、
都合の悪いとき、都合の悪いやつは助けない、という露骨な反動に走ろうとしている。
もちろん国家の正当性をはなから全く認めない人々・革命家にとっては、
これは当然の話で、はじめから国家に頼るなど情けない、ということになるだろうが
しかしやはり民主主義と国家の歴史的進歩を考えればまさに逆行でである。
そして護憲左翼がここから引き出した教訓は、過去50年と同様、
「やはり日本の民衆は、保守的で後進的で遅れていて権力者のおもうままだ」
という民衆蔑視。自分の思うままに動かない民衆への苛立ちと蔑視こそ左翼の本質だった。
そして今後もまた同じ事を繰り返すのか。
自作自演、やらせ、共犯、陰謀、、、という言葉が飛び交うが、
護憲左翼こそ「自衛隊・9条・安保」を通じて腐敗した保守右翼をささえ続けてる
陰謀、やらせ、共犯者ではないかとすら思う。