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(回答先: Re:イスラムの中に角栄を生み出す要素があるのかな 投稿者 スパルタコス 日時 2004 年 4 月 20 日 10:10:09)
スパルタコスさん、
イスラム社会という言葉と、アラブ社会という言葉に注意したい。
私は、イスラム社会というのは、あくまで、モスリムがイスラムの教義に基づいて作られている社会、たとえば、肉屋ではハラルしか売られていない、金曜日の午後には、人がモスクに集まる、ラマダンには、断食にあわせた勤務体制になる。
一方、アラブ社会とは、アラブの血を引くこと認識した人間のあつまり。コプト人であるエジプト人なり、ベルベル人であるモロッコ、アルジェリア、チュネジア人は、この社会は、よそのグループという認識をもつはず。また、アラブ人でありながらキリスト教徒の人間は、モスリムのアラブ人とは、同じアラブ人であっても、心情的に共有していないと思う。(アラファトの例は、マイノリティーだと考えますので。)
>イスラムの中の反資本主義が反グローバリズムの地方主義・縁故主義で終わっているようなものを感じさせるものも多いのではないでしょうか。
金利という考え方が資本主義に基づいているものだとしたら、イスラムは、反資本主義であるといえます。イスラムでは、借金返済も、強制されません。
しかし、反グローバリズム、縁故主義は、イスラムの中にありません。客人をもてなす、という考えはそれに反していませんか?砂漠を越えた隊商は、まさに、グローバリズムではないでしょうか?
>イスラム社会の基本は部族の共同体があって、封建的・絶対的な力を持つ「おやっさん」、頑固親父=首長がいて、これを中心にまとまっている。だから確かにイスラム教徒が非イスラム教徒の迫害を受けた場合は国境を超えた連帯もやるが、通常普通の状態では全然まとまらないのだと思うのです。
頑固親父は、頑固親父の方針で、まとまっているのでなくて、イスラムの教義に基づいてまとまります。だから、アフガンが旧ソ連の侵略を受けたとき、部族と関係のない義勇兵があるまるわけです。その義勇兵にも、個々人の共同体に属しますが、その義勇兵は、その共同体の頑固親父の方針に従って国境を越えるわけでなく、あくまでも、イスラムの教義に基づいてです。
通常の普通の状態では、まとまる必要性、特に、共同体を超えてまで、まとまるる必要性は、どこにあるのですか?イスラムの教義にまとまっている、という範囲以上に、どういう時、必要でしょうか?
>基本はバラバラ。まとまるのは、非イスラム教徒の侵略の時だけという感じではないでしょうか。
まったく、ばらばらばらばらばら、、、、です。数人集まって会社を設立した経験がありますが、個々人の主張が強すぎる!妥協をしない。妥協というと、では、設立に加わらない。というわけです。同じモスリムでも、アフリカン(ナイジェリアとかセネガル)と方と会社をするほうが、ずーっと、スムーズです。
多くのアラブ人、自分の意志に沿わないと、まったく努力というものをしません。
欧米に出てきて、こういう態度を示すと、アラブパッシングが、イスラムパッシングにつながっても、これこそ「自己責任」自己責任ですね。
対イスラムでまとまると書かれてますが、まとまっていないから、パレスチナは、いつまでも、占領されるわけです。また、まとまっていたら、イラクも、アフガンも防げたのでは?
イスラムがまとまらないのは、イスラムのイニシアチブをマイノリティーでまとまりの悪いアラブが握っているからとも言えますし、アラブ人以外のモスリムの中にアラブ人に対する不公平感を感じるものが、アラブに反発をしているとも言えるでしょう。
挙句のあての責任転嫁が、欧米イスラムを分断している、という言い分でしょう。
モスリム、ひとりひとりが、本当の敵を知って、心を入れ替えない限り、イスラムは、共同体として、まとまることは、ないでしょう。