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3 読谷飛行場(陸軍沖縄北飛行場)の建設と村民
http://www.asyura2.com/0403/dispute17/msg/1101.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 5 月 29 日 04:43:26:0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: 2 戦争への道 ―迫り来る戦雲― 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 5 月 29 日 04:41:35)

3 読谷飛行場(陸軍沖縄北飛行場)の建設と村民

http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec01/cont00/docu030.htm

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 飛行場設定計画では、まっさきに沖縄本島中部の読谷山村内に白羽の矢が立てられた。陸軍航空本部は南太平洋におけるあいつぐ航空作戦の敗退という戦局に追い立てられるように、一九四三年(昭和十八)六月ごろから徳之島、伊江島、読谷(沖縄本島読谷山村)、嘉手納(沖縄本島北谷村)、宮古島、石垣島等に陸軍飛行場を設定すべく用地接収が始まった。
 読谷飛行場の建設は村役場や地主にとって寝耳に水のできごとであったと言われる。『喜名誌』では、
 「読谷飛行場の建設は読谷にとっても喜名にとってもかつてない大きな出来ごとであった。建設が始まったのは昭和十八年で、その用地は喜名、座喜味、伊良皆、楚辺、大木、波平の六ケ字にまたがる三百六十町歩であった。突然降ってわいたようなこの飛行場建設の通告は、農業だけが生活手段であった村人にとって大きな衝撃であったことはいうまでもない。同地にあった住家は強制立ち退きになったがその数は喜名四七戸、座喜味七戸、楚辺八戸、伊良皆三戸の計六五戸であった。数字が示すように喜名イリバルが主である。喜名イリバルは五五戸あったが、観音堂近くにあった数戸を除いてすべて立ち退きになった。この立ち退き者のうち数戸が喜名前原などに移転しただけで、そのほとんどが字外に離散した。
 この住民の立ち退きと入れ代わるように各地から徴用人夫が入ってきた。喜名から座喜味の学校に通ずる道のそばに茅葺きの労務者を収容するカンパンが四棟も建っていた。遠くからやってくる徴用人夫の宿舎である。壁も松材を割いた捻(ひね)った板を打ち付けた長屋で、…遠くからやってきた徴用人夫が、わずかな着替えや身の回り品を包んだ小さな風呂敷包みを手に、初めての読谷の地を珍しそうに目を配りながら次々とやってきたものである」(三四三頁)。
 飛行場建設は、沖縄本島では中(嘉手納)、南(小禄)、離島では伊江島、宮古、石垣にも並行して進められたが、これらの飛行場建設は那覇にある第十九航空地区司令部長の青柳中佐の指揮下にあり、読谷(北)飛行場には天野少尉が配置されていた。当時の設営工事管理者であった国場※※の話として『読谷村誌』に次のようにある。
 「読谷飛行場の工事予算は二千三百万円(当時の通貨価値は現在の二百五十倍といわれている)という。予算規模だけからいっても、沖縄では歴史上かってないケタ外れの大工事だった。面積も東洋一といわれ、七三万坪で、二千米の滑走路が東西と南北に二線が敷設され、飛行場の周辺には戦斗機の誘導路が張りめぐらされ、その誘導路は地下堀(ママ)りこみのコンクリートの格納庫に通じていた」(二二一頁)。
 また、防衛庁防衛研究所戦史室によればその建設には住民の多大な協力があったと次のように記されている。
 「航空基地設定に充当された飛行場大(中)隊は元来飛行部隊に対する補給、給養及び飛行場警備などに任ずる部隊であって、基地設定用の器材は装備されていない。従って、円匙(スコップ)、十字鍬(つるはし)、もっこ、馬車などの原始的器具を利用するほかなく、多数の一般住民の労力に依存しなければならなかった。一般住民は食糧増産を要する苦しい状況下に献身的に協力した。
「読谷飛行場の建設」(宮平良秀画)
 『第五十飛行場大隊陣中日誌』によると、各飛行場とも平均三、〇〇〇名の民間人夫を雇傭することを目途として計画推進された。人夫及び荷馬車の雇傭は各町村に割り当て一〇日〜一か月交代制で行なわれ、緊急設定のための作業時間は一日一一時間にも及んだ。
 雇傭賃金は支払われたが問題は食糧にあった。自宅からの通勤者はまだよいが、遠くからの泊り込み作業員の食糧取得は特に困難であった。このため、軍は六月五日から食糧諸品の補給を開始した。主食(米)は一日四〇〇グラム(通勤者は一三五グラム)が支給された」。
 また、第十九航空地区司令部の陣中日誌と第五十飛行場大隊陣中日誌(防衛庁在)には、本島南・東・中・伊江の飛行場建設に投入された労務者の数やその内訳などが記されているが、読谷飛行場についての資料が見当たらないので、本島南・東・中の飛行場が七万人前後となっているので、それより類推するほかはあるまい。
 当時の村役場職員のA(故)は、「工事建設に動員された人員は一日七〇〇〇人、文字どおり人海戦術そのものの大工事だった。一日の荷馬車の動員数が二〇〇〇台を越え、特に読谷飛行場一帯は石灰石が多かったので、石工だけでも一日七〇〇人が動員されていた」と述べている。
 読谷山村内に限ってみても、村内からかり出された者は五〇〇〇〜六〇〇〇人ぐらいで、荷馬車も一二〇台前後だったという。その頃、同時に各地に飛行場建設が進められていたので、徴用令が乱発され、読谷の徴用が終わると伊江島、八重山徴用に駆り出された。八重山の人が読谷に、読谷の人が八重山に徴用されるということも珍しい事ではなかったという。それこそ、国民総動員態勢で、村役場の係官は各字単位の可働者名簿づくりと労務の調達のために献身的に働いた。
「ひどい世になったものだ」(宮平良秀画)
 ところで、このようにして難儀苦労して設営した飛行場、兵站基地も、十・十空襲で灰燼(かいじん)と帰してしまった。
 それに、読谷(北)飛行場及び伊江島飛行場は完成をみないまま、米軍の上陸前に破壊され、使用不能のまま米軍に占領されることになる。

 編者注
 国場※※社長は、「地下掘り込みの格納庫」と表現されているが、現在残っている格納庫を確認してみると、土を盛り上げて土饅頭を作り、その上からコンクリートを張ってコンクリートが乾いた後、中の土を掻き出すという初歩的な工法で造ったものであった。

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