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(回答先: 7 十・十空襲以後の動き 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 5 月 29 日 05:20:36)
8 村民避難の様子 ―上陸直前から米軍上陸まで―
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec01/cont00/docu042.htm
島田知事の着任は昭和二十年一月三十一日、沖縄戦前夜のことであった。二月七日、第三十二軍司令部の長参謀総長が県庁を訪れ、敵機動部隊の沖縄来攻は必至であると戦況を説明し、臨戦処置として、
(一)
住民の食糧を早急に六か月分確保してもらいたい
(二)
既定方針による老幼婦女子の北部山岳地帯への緊急避難を早急に開始してもらいたい
と要請した。
「避難する人々」(宮平良秀画)
県ではこの要請を受けて、県行政のすべての機能を戦時食糧の確保と住民疎開(避難)に集中させることにした。
「県庁では、同日午後から島田叡(あきら)知事の出席のもと部課長会議が開かれ、食糧増産が打ちだされ、その後連日にわたり食糧問題、県外引き揚げ、北部地区への退避が討議された。さらに、北部地区には、山岳地帯に収容小屋をつくることになり、名護に設営本部が置かれるなどした。(中略)
さらに、二月十日、緊急市町村会議が開催され、北部地区への緊急退避計画の全貌が初めて明るみに出た。これ以後県庁はじめ、県内唯一の新聞「沖縄新報」が、連日にわたり疎開を呼びかけるとともに、郷土の防衛と食糧自給を呼びかけている。
しかし、県や市町村、新聞社等の働きかけがありつつも、北部疎開は容易に進まなかった。それは、家族には家族の理由があり、立退き先での生活や避難小屋、さらに長期に及ぶと考えられる食糧問題等、問題が山積していたからである。(中略)
ちなみに、二月十日の緊急市町村会議には、軍当局の他、本島内の学校長、翼壮団長等が参加したが、「沖縄新報」によればその時の内容は以下の通りであった。
「戦局は非常に緊迫しているので、一刻も早く県内人口調整による一〇万人の国頭郡立退を今月中に四万人を移動させ、三月一杯に全計画を完遂する。差し当たり本月立退の四万人は、既存建物を利用して収容。
立退該当者で六〇才以上、一五才未満でも可動力あり、戦力となって踏み止まって戦える者は、立退かなくてもよい。
家族立退のため可動力ある者まで妄(みだり)に立退かぬように抑制する。
輸送には軍も協力して貰い出来るだけ陸上海上交通機関を動員して病弱老人で歩行に堪えぬ者を優先し歩行可能者は早く歩行で立退かせる。(「沖縄新報」一九四四年二月十一日)」。
先に触れたように、一九四五年(昭和二十)の早々から沖縄諸島は、ひっきりなしの大規模な空襲にさらされた。沖縄戦必至とみた守備軍は、県に非戦闘員の北部疎開を要請した。それを受けて、県としては一日も早く老幼婦女子を疎開させなければならなかった。
疎開の実施が打ちだされたのは、二月十五日からであったが、結局、沖縄戦がはじまるまでに指定地に疎開できたものは約三万人にすぎなかったといわれる。ほとんどの住民は米軍の沖縄本島への艦砲射撃が始まる三月二十三日頃から北部へと疎開(避難)することになった。
そこへ米軍が四月一日に上陸し、以後は砲爆撃下を無秩序に避難することになった。その結果、難民の群が北部(山原)の山中にひしめく状態になり、その総数は約八五、〇〇〇人といわれているが、沖縄戦の三か月間、飢餓とマラリア病に襲われ、凄惨な逃避生活が続くことになった。
以下、『読谷村誌』(昭和四十四年発行)、『楚辺誌「戦争編」』(一九九二年発行)を基に国頭への“読谷山村民の避難・疎開の様子”を見ることにする。
「壕の中」(宮平良秀画)
一九四五年(昭和二十)二月に、島田知事から疎開命令が下されたので、村では直ちに国頭村奥間に仮村役場を設け、役場職員を派遣し、同地を中心に浜、比地、桃原、辺土名、伊地、与那等を指定地とし、疎開者受け入れ態勢を整え、国頭村民の奉仕で避難小屋も建てられた。
それでも村民の多くは家屋財産への執着心と墳墓の地への愛着、避難地での生活に不安を感じ、村内にとどまり空襲の際は屋敷内の防空壕や自然洞穴で戦火を避けていた。米軍が上陸する直前まで村民の多くは、まだ読谷に残っていたという。いよいよ米軍が上陸態勢に入り、艦砲射撃が激化する三月二十五日になると、村民は避難騒ぎで混乱状態に陥った。多くの村民は国頭村を目指したが、金武、宜野座の開拓地に入植した知人、親類を頼って避難した人も居れば、行くあてもなく各地を転々とした村民もいたという。
「三月二十三日から、沖縄全面に展開された空襲は、北飛行場を有している読谷には殊に、熾烈を極め、三月二十五日まで少しもおとろえずに続いた。同日の夕刻現地軍から『明朝より艦砲射撃が始まるから非戦斗員は一週間分の食糧を持って、海岸から一里以上離れた所に避難せよ』との命令が出た。この命令は警防団員によって各字民に伝達された。それでいままで避難しなかった各字民も大慌てで国頭へ避難するよう」になった。
「いよいよ沖縄本島が千三百隻余の米艦船により包囲され、また空襲、砲火が一層激化するにつれ、これまで思い切れなかった住民も持てるだけの荷物をまとめ荷馬車に乗り、あるいは徒歩で追われるように避難先を求めて楚辺を後にした。
「戦場へ」(宮平良秀画)
国頭へ通ずる夜の県道は人や荷馬車の群れで実に慌ただしく、兵士たちは南の方向へ足早に立ち去って行き、避難民は北に向かって黙々と進んで行った。字民の多くは乳幼児を抱え、老人を伴っての緊急避難であったので、そう遠くへ避難することができない家族もいた。その人たちは字喜名の裏山やクボウ山、北谷村の久得、美里村の楚南・山城、恩納村の前兼久方面などへ避難して行った。歩ける者、荷馬車のある家族は約三晩を要してやっとの思いで、国頭村奥間へと辿り着くことができた」。
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